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アルバム |
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スポーツ大好き,芦別市のスキー大会女子回転で優勝した
小学校6年生の時(前列・中央) |
■子どものころ
小学校時代は炭鉱の町,北海道・西芦別で育ちました。
勉強よりも,町あげて大人と一緒に観た映画鑑賞や運動会の紅白リレーの選手が思い出。運動会の朝だけ私に生卵がついた。貧しい暮らしの家族の思いやりです。
スキー大会の回転競技で優勝。吹雪の中のスタート,不安ながら突進した一瞬を人生の決断の場面で思い出します。 |
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| 学生時代の1枚 |
■学生のころ
安保闘争が高揚しつつある1959年,北海道学芸大学に入学。教師への道を志したのは教員一筋の父の影響もさることながら,炭鉱と開拓の街で貧しい生活を変えねばという思いと,女性として生きがいのある仕事を考えてのことでした。
そして学生運動のなかで日本共産党に入党。サークル活動や女子寮の寮長の経験は,ゼミとは別の貴重なもの。私のもう一つの大学でした。 |
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| 大阪教育大学の研究室で長男と一緒に |
■教育学の研究者として
大学院へ,そして大阪教育大学へ恩師から「教育の勉強をもっとしたら」というすすめで北海道大学大学院へ進学。クルプスカヤの教育理論を研究のテーマにしたことは,私の生涯の仕事に。
8年間の大学院生活で就職を半ばあきらめかけていた時,最後の挑戦のつもりで大阪教育大学の公募に応じて「社会科教育」講座に就職。30歳になっていました。
2歳の長男と生まれたばかりの次男の保育所通いから,大阪での共働きの忙しい生活をその後14年間続けました。 |
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| 初当選後のポスター写真 |
■大学から国政へ
日本共産党から国政への転進を要請された80年代の中頃,中曽根首相(当時)の「日本をアメリカの浮沈空母に,浮沈空母の乗務員をつくる」発言に,私は危機感を募らせていました。
「子どもは政治を選べない」と政治家への道を決意。1986年総選挙で初挑戦,初当選できました。公約に掲げた「子どもらに愛と希望の教育を」は,今も私の熱い思いです。 |
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元オリンピック水泳選手の長崎宏子さんと
教育シンポジウムで |
■いま国会議員として,党の代表者として
党文教委員会責任者を経て,いま女性委員会責任者・党副委員長として全国駆け巡る。
1990年9月,国連「子どもの権利条約」批准NGO会議に日本共産党から出席。95年日本共産党の提言「いじめ克服の道」を発表,教育シンポジウムなど全国をまわりながら96年秋,2期目の国会に戻りました。
「児童虐待防止法」の提出者になり新法が成立。また30人学級法案を3野党で提出するなど,子どもと教育問題で全力投球しています。 |
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| 大阪に住む夫の守さんと愛猫 |
■子どもと教育の第一線で活躍する家族
夫の守さんは「青年の自立支援センター『ゆう』」を設立し,子どもと父母たちの悩みをともにしています。また長男は弁護士として子どもの権利問題にも打ち込み(東京ウェール法律事務所),次男は名古屋大学教育学部助手。教育学を専攻しています。 |