2003年4月24日(木)「しんぶん赤旗」

新研究挑戦できなくなる

大学法人法案で参考人

衆院委


 衆院文部科学委員会は二十三日、大学法人化法案についての参考人質疑をおこないました。参考人からは、文科省内に設置される評価委員会などが教職員の業務実績を評価することについて、大学研究になじまないとの意見があがりました。

 東京工業大学大学院の赤池敏宏教授は、「独創性の高い科学技術研究を評価することは難しい」と指摘。「評価漬けで教職員を疲弊させ、新しい研究にチャレンジできなくする法案だ」と批判しました。

 京都大学経済研究所の佐和隆光教授は、文科相が法人化された大学の中期目標を決めることについて、「研究には多大な不確実性がつきまとう。研究成果を事前に予測することは不可能な所業だ」と述べ、学術研究を中央集権的な計画で管理するべきではないと指摘しました。

 日本共産党の児玉健次議員は、文科相が上から定めた中期目標への到達度で評価されるようになれば、「基礎科学や人文科学はどんな困難に直面すると考えるか」と質問。佐和教授は「特許をとって金になる研究が重視されるようになる」と答えました。国立大学協会法人化特別委員会の石弘光委員長(一橋大学長)は、国立大学協会総会開催についての児玉氏の質問に、「十三の大学学長の求めがあれば臨時総会を開くことになるがきていない」「すべての学長が一枚岩ではない。条件つき賛成もある」と答えました。

衆院 文部科学委員会会議録 10号 

平成十五年四月二十三日(水曜日)
    午後一時開議
 出席委員
   委員長 古屋 圭司君
   理事 奥山 茂彦君 理事 鈴木 恒夫君
   理事 馳   浩君 理事 鎌田さゆり君
   理事 山元  勉君 理事 斉藤 鉄夫君
   理事 佐藤 公治君
      青山  丘君    伊藤信太郎君
      大野 松茂君    岡下 信子君
      岸田 文雄君    倉田 雅年君
      近藤 基彦君    佐藤 静雄君
      谷田 武彦君    中谷  元君
      林田  彪君    松野 博一君
      森岡 正宏君    柳澤 伯夫君
      大石 尚子君    鳩山由紀夫君
      肥田美代子君    平野 博文君
      藤村  修君    牧野 聖修君
      松原  仁君    山口  壯君
      東  順治君    黄川田 徹君
      石井 郁子君    児玉 健次君
      中西 績介君    山内 惠子君
      金子善次郎君
    …………………………………
   文部科学大臣政務官    大野 松茂君
   参考人
   (一橋大学学長)     石  弘光君
   参考人
   (東京工業大学大学院生命
   理工学研究科教授)    赤池 敏宏君
   参考人
   (日本大学総合科学研究所
   教授)          小野田 武君
   参考人
   (京都大学経済研究所長・
   教授)          佐和 隆光君
   文部科学委員会専門員   柴田 寛治君
    ―――――――――――――
本日の会議に付した案件
 国立大学法人法案(内閣提出第五六号)
 独立行政法人国立高等専門学校機構法案(内閣提出第五七号)
 独立行政法人大学評価・学位授与機構法案(内閣提出第五八号)
 独立行政法人国立大学財務・経営センター法案(内閣提出第五九号)
 独立行政法人メディア教育開発センター法案(内閣提出第六〇号)
 国立大学法人法等の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律案(内閣提出第六一号)
     ――――◇―――――
○古屋委員長 これより会議を開きます。
 内閣提出、国立大学法人法案、独立行政法人国立高等専門学校機構法案、独立行政法人大学評価・学位授与機構法案、独立行政法人国立大学財務・経営センター法案、独立行政法人メディア教育開発センター法案及び国立大学法人法等の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律案の各案を一括して議題といたします。
 本日は、各案審査のため、参考人として、一橋大学学長石弘光君、東京工業大学大学院生命理工学研究科教授赤池敏宏君、日本大学総合科学研究所教授小野田武君及び京都大学経済研究所長・教授佐和隆光君、以上四名の方々に御出席をいただいております。
 この際、参考人各位に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多用中のところ本委員会に御出席をいただきまして、まことにありがとうございました。各案につきまして、それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお聞かせいただき、審査の参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願いを申し上げます。
 次に、議事の順序でございますが、石参考人、赤池参考人、小野田参考人、佐和参考人の順に、お一人十五分程度で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑に対してお答えをいただきたいと存じます。
 なお、念のため申し上げますが、御発言はすべてその都度委員長の許可を得てお願いをいたします。また、参考人は委員に対して質疑ができないことになっておりますので、あらかじめ御了承願います。
 それでは、まず石参考人にお願いをいたします。

○石参考人 トップバッターを承りましたが、石でございます。
 私は、現在、国立大学の学長をし、かつ、国立大学協会の副会長をしておりまして、この法人化問題についてはたびたび発言もいたしておりますので、その立場上、これから十五分ほど時間をいただきまして、国立大学法人法につきまして、日ごろ考えています意見を述べたいと思います。基本的には賛成という立場で、以下、幾つか理由を述べたいと思っております。
 お手元に、ごくごく簡単な、レジュメだけの資料をお渡ししております。本来はもう少し肉づけをしたものをお渡しすべきかと思いましたが、ちょっと時間的制約もございましたし、まだ考えも固まっておりませんでしたので、この項目だけので失礼させていただきます。
 今なぜ法人法案が必要かということの前提といたしましては、現在、大学がどのような問題を抱え、そして、どういうふうなことを改革の方向として考えているかということから御説明するのがよかろうかと思っております。
 まず、大学は、特に日本の大学というのは、端的に申しますと、私は、国際的な環境の中で著しく競争力を失っておると考えております。つまり、研究者が海外に頭脳流出していくということはもう長年言われておりますが、最近は、優秀な高校生までが、日本の大学に行かないで欧米の大学に行ってしまうという現象がしばしば指摘されております。ということは、研究教育の面において日本の大学がしっかりしないといわば空洞化が起こるのではないか、こういう危機感を持っております。
 そこで、それに対して、大学も決して手をこまねいていたわけではございません。たしか一九九〇年初頭、九一年だったかもしれませんが、設置基準の自由化という形でかなり大幅な権限を大学に与えられ、内部改革について努力はしてまいりました。例えば、シラバスの作成であるとかあるいはセメスター制の導入であるとかあるいは任用制を具体的に入れるとか、たびたびやってはまいりました。
 しかし、やはり中だけの改革では生ぬるい、かつ、大学人の意識の変化がないとこういう大きな改革には結びつかないとかねがね思っております。そういう意味で、今回、国立大学の設置形態そのものを変えるというこの法人化というのはいいきっかけであり、私は、これをいい方向に動かしつつ真の大学改革を遂行すべきであるという立場をかねがねとっております。
 今どこに問題があるかといいますと、二、三、例を申し上げますと、やはり、大学の組織、人事が、今のままでは非常に硬直的であります。言うなれば、若いころ採用されたままで、さしたる業績もなくても定年まで安住できる状況でございますし、研究教育の最低限の義務を果たしていれば、それなりの大学生活を送れる。言うなれば、競争という形のものが著しく欠けているのではないか。
 そういう意味では、私は、第二に、やはり研究教育には競争が必要だと思っています。ある論者に言わせれば、大学は競争になじまないという御意見もあるのは事実でございますが、ただ、確かに、一、二割のところは競争になじまない研究領域はあると思っておりますが、それを理由にして、本来、競争にさらした方がいい分野にまで競争原理を否定するのは、私は大いに行き過ぎだと考えております。
 これからは、いろいろな形で競争ということで、いい教育サービスも送れるようになるでしょうし、あるいは、研究者同士が切磋琢磨して、いい研究業績を上げ、国際的なレベルにまで研究活動を広げるということが可能になると思います。
 が、本来、長時間、時間をかけなければ成果が上がらないとか、あるいは外部資金の導入とはおよそ縁のない学問分野というのもあるわけでありますが、その分野については、各大学が、例えば研究費をとってきたら、オーバーヘッドという形で大学全体にそれをファンドとして積み立てて、そういう基礎研究の育成あるいは充実のために充てるべきだということをやれば、恐らく、金の面、人の面でも、その基礎的な研究というものはなおざりにされないと思っていますし、それができないような大学はこれからだんだん衰退していかざるを得ないという自己責任、そこでこの勝負は決まってくると思っています。
 それから、私は、何といっても、この改革のいわゆる一つの目玉は、教育サービスが向上すると思っています。例えば、学生による授業評価の制度も入れている大学も出てきましたし、これは欧米の大学では当たり前なんでありますが、これが長いことやられてこなかった。
 それから、国立大学に評価というのが入る。これも海外ではごくごく自然に行われていることであります。当初はいろいろな問題があって、試行錯誤を経るかとは思いますが、この評価というものは、やはり、外部の目に大学のパフォーマンスをさらす意味では非常に重要であると考えております。
 それから、やはり、大学に経営マインドが出てくるだろうと思っております。これは、単に大学間だけではなくて、地域あるいは企業等々と連携をしながら、社会的な貢献という面で、国立大学あるいはひいては大学全体が貢献できるのではないか、このように考えております。
 そういう意味で、この設置形態の変更というのは非常に大きな意味を持ち、これが起爆剤となって、私は、大学改革を進める方向に大いに活用すべきだと思っております。もちろん、心配な面がないわけではございませんが、これはこれから何人かの方がおっしゃると思いますし、私も最後にはそれに触れたいと思っております。
 そこで、法人化をしたらどういうことが期待されるかという第二の項目の話を簡単にさせていただきます。
 簡単に申し上げますと、大学の運営、具体的には研究教育を中心とした大学全体の言うなれば運営でございますが、そこに自主、自律の原則が入り、かつ、その裏返しとして自己責任、これでもって大学の本来の使命を果たすということが必要になってこようかと思っております。交付金という形で、資金、俗に言われます金は与えられますから、その配分は大学の自由になりますし、人、定員管理も自由になりますし、ポスト、組織、これも大学の独自の方法によって自由に運用できるはずであります。
 実は、この面に関しまして、これまでは著しく不便でありました。金、人、組織、すべからく、はしの上げ下げまでと言われるぐらい、官ないし政府の縛りがいろいろあったのは事実でございまして、この辺に風穴があくということは非常に望ましい方向、ただ、そのかわり責任は大きくなると私は思っております。
 競争とはいっても、民間の企業と違いまして、売り上げで競うとかあるいは生産高で競うということはできません。そういう意味では、大学に六年間の中期目標、中期計画を立てさせて、その中で、後、評価をするといったような仕組みは、私はどうしても必要と考えております。
 つまり、何でもかんでも自由になるという、その幅をあるところで制約する仕組みはやはりあって、特にこれは予算が絡みます。幾ら法人化したといえ、国立大学は結局税金投入で運営される大学でありますから、国民あるいは納税者に対して、中で何をやっているかということを説明する責任がございますから、きちっとしたそういうフォームは必要かと考えております。
 それから、そういう意味では、これからは大学の中で、私は、非常に活性化してくる、つまりいい講義をする人、いい研究をする人に対してはそれなりに注目も集まり、それなりの待遇が期待されると考えております。
 今、情報化であり国際化の中で、従来のように教授会をベースにしたボトムアップ的なディシジョンメーキングでは大学はもたない、大学の運営は著しくおくれ、迅速な手が打てないと思っております。ある意味では学長のトップダウンといいますか、リーダーシップといいますか、それによって大学全体の意思をまとめていくということは必要になってこようかと思いますし、これは欧米の大学ではごくごく自然の話だと思っております。
 ただ、その学長が、非常に独裁者的な、あるいは暴君的なのではどうしようもないのでありまして、学長は、大学の構成員全体から支持され、慕われ、要するにその考えに従って皆が協力する、そういうリーダーシップでなければいけないと思います。制度的には、学長の解任権とか、あるいはリコール制とかというものをかませれば、学長にある幅の権限を与えて自由にやらせるという環境づくり、これが私は今後の大学の活性化に大きな役割を与えるものと確信いたしております。
 さて、問題はないわけではございません。改革でありますから、当然のこと、プラスの面、マイナスの面、両方考えなければいけません。ただ、リスクを恐れる余り、現状維持でいいということは、今の大学人は私はだれも考えないと思います。立ちどまって何もしない、そのリスクの方が私は大きいと思いますし、今申し上げた、あるいは法人化の方に込められております制度設計を見れば、頑張って努力する大学には報われるような、そういうような大学改革になると思っておりますし、なるべく努力をすべきだと考えます。
 そういう意味で、まず私は、運用というのが非常に重要だと思っています。法案ができ、法制化しても、実際にそれに携わるのは恐らく官僚、政府あるいは大学人等々の人でございまして、その運用に関してはかなり幅があると思っています。そういう意味で、今後、大学の裁量の幅をでき得る限り広げる、つまり逆のことを言えば、無用なコントロール、無用な介入はやめていただきたいということが恐らく大学人の共通の要望だと思っています。
 例えば、概算要求というのを一つとりましても、従来は大学は、何か組織を大きくしようとか、あるいはある企画を立てようということになると、大学の方からみずから文科省に出向いて、すべからく説明をし、各部署の何カ所も何カ所も許可をとるというような格好になっておりますが、これからは、六年間のいわゆる計画を立てる、そういう予算の中でありますので、窓口を一本化してすっきりするような格好、言うなれば大学の裁量でかなり予算編成ができるとか、そういうことも必要でございましょう。大学も変わるわけでありますから役所も変わるという基本的な原則をやはり貫いて、極力、少なくとも従来以上に大幅に大学の自由裁量の幅をふやすということが重要かと思っています。
 これはまた、逆のことを言えば、事前的なチェック、事前的なコントロールというよりは事後的なチェック、これが重要ではないかと思っております。あるルールを決め、そこでプレーヤーとして大学の運営を自由にやらせて、その後いろいろな問題が出てくればチェックをする、そういうことがどうしても必要になってきますし、何よりも透明な行政ということが欠かせないと思っています。例えば運営交付金の算定の仕方も、だれが見てもわかるような格好にぜひしてほしい。
 それから最後に、さまざまな制度改革になりますと、大学の事務量というのがほうっておくと非常に拡大する心配があります。もう既に各大学人はかなり危機感を持っておりますが、大学評価のための作業量、これは膨大であります。事務量も大変だし、印刷物も大変でありますし、会議に使う時間も大変であります。これは一つの例でございますが、今後これを極力阻止する方向でやらないと、法人化といういい方向を向いていても途中で息が切れてしまうということもあり得ようかと思いますので、こういう運用の面については、この法人法案を基本的に支持する立場としても、この辺は十分御留意いただきたい。
 まとめますと、私は、法人化というのは各大学の努力あるいは自覚と才覚が問題で、これからどういう大学をつくっていこうかというビジョンを立て、大学全体となって努力すればそれだけある方向で報われてくるというふうな制度設計になってくると思っておりますし、そうせないかぬと思っています。
 そういう意味で、二〇〇四年、来年の四月からは法人化というものに移行するという形で、今各国立大学は準備をもう既に始めております。各大学等も準備委員会等々をつくって着々とやっております。そういう意味で、この法案がなるべく速やかに成立して、具体的なイメージを我々に与えていただいて、それをベースにして、これからこの法人化、さらなる目標として真の大学あるいは大学改革というものに努力していきたいと思っております。
 時間が参りましたので、これで私の意見の開陳を終わらせていただきます。御清聴ありがとうございました。(拍手)

○古屋委員長 石参考人、ありがとうございました。
 次に、赤池参考人にお願いをいたします。

○赤池参考人 東京工業大学で学際大学院といいますか、生命理工学研究科で教授をやらせていただいています赤池です。
 同時に、昨年三月まで二年間は、信州大学大学院医学研究科臓器移植細胞工学医科学専攻の教授も併任させていただきまして、いろいろとこの学際領域における学問の重要性、運営の重要性を痛感した者として、本日は、少しく時間をいただいて、お話ししたいと思います。一部分は時間の短縮のため書き置いた原稿を読ませていただき、大事なところはまた一部お話で申し上げたいと思います。
 私は、過去二十五年にわたり、医学、生物学、特に工学の高分子科学の領域の学際領域におきまして、分子科学あるいは分子生物学という共通性の高いサイエンスをいわば共通言語として、悪戦苦闘しながら、新しい学問分野に確立すべく努力してきた一介の研究者であります。新しい学問の分野の開拓、今日本が一番必要なそういう独創性の高い科学技術や質の高さを評価することが、あるいは評価されることがいかに難しいかということを実例を挙げながら申し上げて、ぜひ、こういう評価評価の、教職員が疲弊するような評価漬けの、研究がチャレンジングに取り組めないような新しい法案をぜひ御一考いただきたい、こういうふうに考えて、本日述べさせていただきます。
 私、最近でこそ人工臓器、再生医療、遺伝子治療等々のいわば花形の、バブル化したような領域の基礎をなす分野として私の領域は、一部分ではありますがございますが、しかしながら、私が三十数年前、この領域の一番出発点に、東京女子医科大学に工学部からドクターが終わってから入っていって悪戦苦闘したころの十数年の前半期は、本当に学問として認知されず、おまえは何をやっているんだ、おまえの学者生命はおしまいだという、私、東大なんですが、東大の当時伝統的な応用科学の分野の先生方からあるいは先輩から言われながら、一部の先生に応援を受けながら、データを積み重ねながら新しい領域をつくってきた、そういうつもりであります。その後、幾つかの大学を転々といたしましたが、その都度、余り評価されない中を、いつかはこういう領域が重要であろうと思いながら、一部分の先輩教授あるいは学生の期待、励ましを支えにやってきたわけであります。
 そういう経験からいたしますと、今日本が一番必要とされている、そういう新しい、世界に冠たる独創的な領域で勝負をして、英知を、あるいは情報を発信しなくてはいけない我が国の置かれている状況のもとで、今回出てきた法案は、余りにも文部科学省サイドの管理や締めつけが行われ、一部に危惧される、独善的な学長の突出を認めてしまうというような状況の中で、私の半生守り抜かれてきました学問の自由のよさ、あるいは大学の自治、いずれも憲法や教育基本法に保障されているわけでありますが、こういう世界が一気に侵されていくのではないか。
 実は私は、一九六九年、そこの鳩山さんと全く同一世代でございますが、いわゆる学園紛争のころ数年間は、大学へ行っていても研究はやらずに、新しい社会改革の一翼を何とかと、学生なりの気持ちで怒りをぶつけていたわけで、その後は三十年余り、ひたすら新しい領域をつくろうということで沈潜しておりましたが、このたび、このような法案を見るにつけ、いろいろな先生方が非常に、まじめに考えれば考えるほど許せない法案であるというふうなことを聞くにつけて、一肌脱がなくてはいけない、これで立ち上がらなければ男ではない、人間ではない、こういうふうな気持ちにもなって、本日登壇し、二十一世紀の個性と英知輝く日本の大学づくり、私自身が、石先生の一橋大学でも十年間、学生の好評に博して、東京工業大学と一橋大学の、いわゆる四大学構想以前に走っているようなプログラムをずっとフェース・ツー・フェースでやってきまして、二百人以上の学生諸君の支持を受けてきた立場からいたしますと、十分我が国の大学の、もちろん改革するべき点は、先ほどございましたようにいっぱいあるんですが、大学の学問の自由さ、ある程度の自治、こういうふうなことを保ちながら、情報発信の基地、英知を磨く場として大学を生かすべきだ、こういう立場を持っています。
 さて、本日、限られた時間でありまして、私は評価の問題に話のフォーカスを当てて、いかに評価型が、このような法案の前提になる評価型では危険で、我が国が二流国、三流国になってしまうような大学運営になるんじゃないか、こういう心配をする立場で申し上げたいと思います。
 皆さん、最近のいい例を見ていただくとわかるんですが、田中耕一さんの名前を、ノーベル化学賞のいわば下馬評として御存じだった方はいらっしゃいますでしょうか。私も日本化学会に所属し、大変好奇心が旺盛で、いろいろな分野とかけ合わせをしたいと思っていながら、全く存じ上げませんでした。
 田中耕一氏は、東北大学の電気工学科を出られて、島津製作所に入られて、たまたま、いわば禄をはむ一環として、その中で、独創的な生体分子、生化学領域における化学の分析機器、TOFMSというものの一番根本をなす手法を発見、発明というよりは発見された方でありますが、私の身近な、多分、日本化学会長もいずれの化学会の幹部の人も、この人の名前をその受賞決定時には存じ上げなかったと思われます。異分野から入ってきて、このように突出したお仕事をなされる方をしばしば我々は見失うわけであります。
 それから、我が東工大の恥をさらすようでありますが、同じく、三年前にノーベル化学賞をとられました白川英樹先生、この方も、お会いになった方はわかりますように、実に目立たない謙虚な研究者で、晴耕雨読が受賞の直前の、引退後のプランだったと言われるような生き方をモットーとされておりますが、何と東工大の助手時代に、もうノーベル賞の受賞内容である、ポリアセチレンが電気を通す、プラスチックは絶縁体であるという常識を、エレクトロニクスと高分子合成化学という彼の得意わざとをかけ合わす中から見つけてきたわけであります。これも不覚にも我が東工大のいかなる教官も、多少の応援はした人もいると聞いておりますが、結局プロモーションには全くつながらなかったわけでありまして、石もて追われるかのように筑波へ去られていったというわけであります。鳩山さんもそうかもしれませんが、東工大を助手のまま去られたわけであります。
 人間というのは、どのように光り輝くかということは他人がなかなか推しはかれない、推しはかるように努力すべきではありますが、推しはかれないという面がございます。したがって、そういう可能性の中から、我が国の人文科学から社会科学、さらには自然科学、テクノロジーというのが結構、確かに組織立っては余り強いという部分はないとか、あるいは知的財産の確立、特許という点では、アメリカ等を筆頭とするアグレッシブな国々には負けそうである、負けていると一部に言われていますが、そういう種を育てるような環境として、我が国の大学制度というのは、改革すべきではあっても、その本質において間違っていたとは思えない側面がたくさんあります。
 私自身も、将来、運がよければ私の代か次の代ぐらいにはノーベル賞がとれるんじゃないかと。高分子化学の領域を、全く、生物化学や医学の領域の間を突くというような仕事で、それを励みにやっていて、そして大学の学問は自由だということで、多くの先輩諸氏に、あるいは学生に応援されて生きてきた、こういうわけであります。
 ついでに言わせていただきますと、福井謙一先生ですら、物理学が本当は得意であって、そしてある先輩のというか、お父さんの御友人の京大教授に少年のころ相談に行ったら、物理が好きなら、これからは化学をやりなさいということを言われて、入った結果、量子力学という物理の最前線の仕事を化学反応を理解するのに使うということで大成功をおさめ、しかしながら、初期はやはり、何をやっているんだ、邪道であると言われたようにも聞いておるわけであります。
 かくのごとしに、日本をリードするような幾つかの研究、これは多分社会科学や人文科学も当てはまると思いますが、将来、日本の代表的な顔になるべき研究は、こういう日々の中から生まれる。文部科学省が管理して、評価を決めて、六年間の中期目標をまず立ててやる。おたくが立ててきたものを踏まえてではあるけれども立ててやる。そして計画も立てなさい、それを評価してやる。これを軽々しくやりますと、やはり国を滅ぼすもとになる、戦える武器をどんどんつぶしていく可能性があるんだということを、ぜひ英明な皆さん方には御承知いただきたい、そういうふうに思うわけであります。
 評価ということがいかに難しいか、そして評価の目ききということを育てる作業は今後もますます重要であることは論をまちません。とりわけ異分野を越えてスーパースター的に、評価、目ききをするということは大変重要であるわけですが、残念ながらまだ不十分な現状にあって、このような法案で、一気にお上が民を取り仕切るというような発想はぜひ捨てていただきたい、こんなふうに思います。
 そのことは、この中期目標や中期計画の、許認可等でもう既に、私、こういう場が与えられるということで、国会の衆議院の本会議の議事録を読ませていただきました。民主党の山口壯さんという議員の方が非常に的確に包括的にお話しになっているので、賛成派の自民党の先生方ももう一遍見ていただいて、ぜひ、ああこういう問題点があるのかと、改革は必要であるけれども今この路線でいったら危険であるということを確認していただきたいと思います。
 この点は、学長選挙についても同じことだ、こんなふうに思います。サダム・フセインとは言いませんが、今のシステムでこのまま強引なケースを想定しますと、いろいろシミュレーションしてみたんですが、場合によるとお手盛りの人事が進められ、社会的にコンセンサスがあるとはいえ、相当強引な方が強引な路線で突っ走り、そしてあげくの果てに、戦前の大学のように、良心的な研究者や意見を述べる人を追放するなんということになることを、少しだけですが私は恐れています。
 議論は今ようやく沸騰しつつあるし、これから丁寧にじっくりと作戦を立てれば、英知あふれた個性輝く大学として、日本が誇れり、そして世界に尊敬されるような大学づくりは、今ようやく大学の先生方も危機感に目覚めた。そういう意味では、このたび文部科学省がかたき役をとっていただいたと理解すると、大変問題の多いたたき台を出していただいて、大学の先生をある点では、気づいていた人は私も含めて一生懸命それなりにいろいろな可能性を、対産業、対市民、対予備校、対高校、対一橋大学、文科系理科系を超えてやらせていただいております。こういう仲間は少しではありますが徐々にふえているわけでありますから、ぜひこういう機会に討論を深め、審議を深めて、非常に建設的な新しい大学案にバージョンアップしていただければと思います。
 以上です。(拍手)

○古屋委員長 赤池参考人、ありがとうございました。
 次に、小野田参考人にお願いをいたします。

○小野田参考人 私は、国立大学の法人化の問題にある程度焦点を絞って、レジュメをお配りさせていただいているかとも思いますけれども、八つのステップで私の考え方を御説明、また述べさせていただきたいと思っております。
 本日の主題は間違いなく教育という問題であり、研究という問題であります。特に前者は、だれしもが真剣に、ある意味ではある個人的な背景を持って議論できる性格のものであります。それゆえ、第一ステップとして、私自身の立場をちょっと御説明させていただきたいと思います。
 私は、肩書が本日大学の教授になっておりますけれども、四十年を超えて化学系の企業で研究開発、新しい事業の開発、また経営のトップ層に入りまして従事してまいりました。その間、経済団体連合会、現在の日経連でございますけれども、そこで大学問題のワーキンググループというものが、主として技術系の問題になりますけれども昔から活動しておりまして、約十年間、最近まで私はそこの主査を務めてきて、大学の問題であるとか科学技術の問題とか、いろいろな皆様と、ある意味では経団連のスポークスマンとして活動をしてまいりました。そういうことで、私のキャリアとして、科学技術の政策あるいは産学連携、大学改革というものについては深いかかわり合いを持ってまいりました。
 また、私、きっすいの産業人ではありますけれども、ほぼ二十年以上、多分日本で一番たくさんの種類の大学を教えた人間ではないかと思いますけれども、客員教授等々で一応研究や教育の現場の体験を持ちながら、大学の設置審であるとかあるいは外部評価なども多数やってまいりました。というのは、私は大学が好きなんです。大変尊敬をしているんです。それだけに一方では強い危機感を持っている人間だというのが、私の背景でございます。
 それでは、これから第二ステップとして、私が意見を申し上げるベースとなるものは、一つの時代認識だと思います。特に、政治家の皆様の基本的な立脚点というのは時代認識だと思っております。
 私の経験から申しますと、私は企業人として、八〇年代のアメリカで企業や大学がいかに変貌してきたか、また、ソビエト連邦の崩壊と同時に、あるいはそれにつれてヨーロッパがいかに変わってきたか、また最近では、中国を代表とする新興経済発展の国々の変わりようというものを、ビジネスを通じて、あるいはさまざまな研究開発等々の連携を通じて感じてまいりました。そこで私が強く感じたことは、確かに経済の国際化というのは昔から進んでいますけれども、いわゆる国際化という流れはもう経済だけにとどまらない、あらゆるものが国際化という波にさらされるということを、嫌というほど感じたわけですね。
 また、一方では、ちょっと皆さんが余裕があるときは必ず議論されます、資源だ、エネルギーだ、環境問題だ、現代の文明の社会の将来はどうなるんだろう、これはまさにどうなるんだろうかどころか大変な問題なわけですね。そういう一つの制約のもとにどう我々が活動していくかという思いであります。
 それとともに、経済先進国のさまざまな社会的な意思決定のメカニズムが明らかに変わりつつある。それはNPO等と言われますけれども、いかに個人個人が同じ思いを持ってしかるべき提案をお上に、言葉は悪いですけれども、自分たちより強い者に、国を指導してくれる人たちにぶつけていくかというメカニズムがダイナミックに動いている、これを痛烈に感じております。
 それに比べて、やはり我々日本というのが、はるかに極東という、多少地理的にいえば不利な地にありますし、過去の成功体験というものがございました。そういうことで、簡単に言えば、周回おくれのランナーになっているんじゃないかなというのが、危機感の原点であります。
 その中で、三番目に、私自身の焦眉の問題意識というのは非常にシンプルでございまして、確かに、この二十世紀後半、我々は経済力という力で、その牽引車としては産業、産業技術ということで、世界に冠たるある意味では豊かさ、文明社会を築いてきたかと思いますけれども、世界の産業地図が激しく変わってきた、そしてその中で、我々が経済力あるいは産業力を持たずして日本というのはやはり衰退するだろうなという危機感が猛烈にございます。それから、やはりこの辺を全うしないと、未来に対して、多くの問題に対して、我々がしっかりとそれを受けとめてやっていくという力も使えないわけですね。
 そこでまた残念なことに、それでは産業にとってかわるような牽引車が日本の国の中で育っているか、全くないわけです。よって我々は頑張らなきゃならないという、いわゆる国際的な競争力が問われるわけです。
 ただし、国際的競争力というものは、一昔前のものとキャラクターが変わってまいりました。総力戦になっています。産業の競争力は産業だけの競争ではない、国じゅうのあらゆるメカニズムが、あらゆる組織が国際競争にさらされて初めて戦えるものだということを感じております。それをちょっと別な字句で表現すれば、一人一人が強くならなきゃだめ、それから、その集団である組織が強くならなきゃだめ、また、人と組織が動いていくメカニズム、仕組みが強くならなきゃいけない、この三拍子が強くなっていかないとシステム負けしてしまう、力負けしてしまうという時代だと思っております。
 さて、第四段階で、要するに参考人、私の大学改革に対しての論点というのは、非常に簡単でございます。大学というものは知の中核であり、人材育成の基盤だと思っております。逆に言えば、今申し上げた国のファンクションで、国際競争の先頭に立っていってもらわなきゃいけない機能だと私は確信しております。特に日本の場合には、さまざまな歴史的経緯からいっても、国立大学への質的な依存性、量的ではありません、質的依存性は極めて高いわけです。それだけに国立大学は、今申し上げてきたような時代の認識であるとか、私が申し上げた危機感であるとか、そういうものにこたえてくれないと困るわけなんです。
 これを抽象的に申し上げれば、一人一人の個人、大学人は、その人がやりたいと思うことが存分にやれているか、こういうことをやりたいと思ったらそれができるような状態になっているか。それでは組織というものは、本当に大学という組織体でその力を発揮しているだろうか。一人一人が強いのは当たり前です。それが集まればもっと強くなるはずの、その組織力を発揮しているだろうか。また、個と組織の力を十分に顕在させる、そういう仕組み、システムができているのだろうかといえば、答えはもう明らかです。答えは申し上げません。
 それで、次のステップとして、私が今回の国立大学の法人化法案に対してのバリュエーションですけれども、結論としては、私の思いからすれば満点ではないけれども合格点だ、大変御無礼な表現かもしれませんけれども、そう思っております。
 私自身は、実はこの提案法案のもととなった国立大学等の独立行政法人化に関する調査検討委員会の議論に参画してまいりました。正直申し上げまして、当初は、こんな法案なんてつくれるかなと思うぐらい、何といいましょうか、委員の中では意見はてんでんばらばらです。その過程では、実は、皆様方が危機感を持ち、これは大丈夫なのかといろいろ御心配になられるような点がほとんど全部出てきて、議論を繰り返してきたかと思います。
 しかし、最終的な答えとしては、リスクを恐れて停滞するよりも、やはりリスクを覚悟して進むべきときであり、進むものだ、これが大学人の自立であり、みずから律することだ、そういうお考え方。それから、確かにリスクはあるよね、しかしそれは、時代が変わっている、昔とは違う、アカウンタビリティー、いわゆる説明責任とか情報公開、これによってリスクは大幅に低下する、低減する可能性があるのではないかなというようなことがあるいは委員の皆さん方の共通認識になって、この法案になったのではないかなと私は考えております。
 その法案の内容の私自身の理解ですけれども、今申し上げた個人の活力は上がるのか、上がると思います。天井は少なくとも、従来に比べればこれは大幅にあいています。個人の才覚で、個人の志で、もちろん国家公務員でないとか、いろいろな周辺の事情もありますけれども、そういうことを通じれば明らかに広がっております。
 組織はどうかといったら、組織力を醸成、発揮することは、確かに従来に比べたら格段の進歩があると思います。外部の有識者、いかにいい方を選ぶかは問題ですけれども、その経営能力を活用したらいいですし、学長、役員会の権力がある程度強くなることによって構想力がつきます。大学にないのは組織体としての構想力なんです。そういうものをつくる仕組みがやはり乏しいわけです。それができる。それから一方では、職員のプロフェッショナル化と申しましょうか、そういうことが進むと期待できます。
 そして、問題は、そういう基本的に個と組織の力が期待できる中で、それがうまく回る仕組みができるのか。これは、大学人にみずからつくれという自由度が与えられた、大学が法人になることによってそういう活路が開けたと私は思っております。
 ただし、これから後ちょっとだけ述べさせていただきますけれども、私が考えますこの法案というのは、国立大学法人法は、国の大学改革の確かに中核をなすものですけれども、やはり改革の基盤をつくるだけにすぎないと思っております。大前提として、やはり国の教育、研究のことを思えば、国際競争力の視点を考えれば、我々の国の規模にふさわしいだけの国費の充当を欠いては、全部これは絵にかいたもちの法案だろうと思っております。質のいい先行投資をして損をした例は、世界の歴史にはないと思います。この科学技術に対する、教育に対する投資は、間違いなくそういう基本的な性格を持っていると思います。
 それから、大学改革に資するさまざまな施策がこれから矢継ぎ早に出てくると思います。これを私はちゅうちょなく実行していくことということが大切だと思います。
 幾つか事例を申し上げます。
 大学というものを今議論していますけれども、それでは、初中等教育と大学、ちゃんとうまくつながっていますか。問題ありますよね。それから、大学の中を見たって、何だか明治以来の名称やら職務規程が存在しているわけですよね。こんなことで正直言ってまともなキャリアパスができるかという問題。
 それから、大学から社会に飛び出していくとき、大変な問題があるのは御承知ですね。社会に出て就職するわけです。その就職活動、社会との連携がいかに大学の教育を阻害しているか。それがむしろ我々の常識になってしまって、平常な精神、平常な気持ちでいるんですけれども、世界と比べてみたら異常な状態がたくさんございます。
 最後に一言だけですけれども、私が国立大学に期待するということは、やはり社会を先導してほしい、そういう研究をし、そういう若者を育ててほしい。今役に立つ若者なんていいんですよ。若者に必要なのは、彼らが三十になり四十になり、その世界のリーダーをとるときに、それにマッチする能力をやはり大学というのは育ててくれなきゃいけない。そのためには、そういう時代が何かを先生方は知っていなきゃいけない。象牙の塔の中に行って知ることができますか。社会と一緒に歩んで、暮らしてこそ、未来が洞察できる。それでは、今の大学は社会と一緒に歩んでいますか。社会の方は何だかわからないねと言っているわけです。
 ですから、第一歩はオープン、開いてください。要するに、社会に開き、社会とともに歩んで、そして社会を先導してほしい、ひたすらそういう期待を持ちながら、この法案を温かく見ていきたいというふうに思っております。
 ありがとうございました。(拍手)

○古屋委員長 小野田参考人、ありがとうございました。
 次に、佐和参考人にお願いをいたします。

○佐和参考人 お手元に配付されております資料を早口で棒読みさせていただきます。
 なお、確認いたしましたら、傍聴席には資料が配付されていないようですので、もし御必要というふうにお感じであれば、後ほどメールなり郵便なりで御請求いただければお送りいたします。
 私こと、国立大学の教官を三十六年間続けてまいりました者といたしまして、また、アメリカの私立、州立大学に合わせて四年間滞在し、研究、教育に携わった経験の持ち主といたしまして、国立大学法人法案につき意見を開陳させていただきます。
 私がアメリカの大学で研究、教育に携わったのは一九七〇年代のことですが、そのころ既に日本の国立大学の教官を務めておりました私は、日米の研究、教育のあり方の間に横たわる溝の深さと広さに舌を巻く思いがいたしました。
 アメリカの大学教師は、あくまでも教育のプロフェッショナルであることを自覚しており、大学院生は研究することのみならず、教えることの訓練を十分に授かるようであります。昨今、民間企業や官庁の専門的人材を大学教員に採用するべきだという向きが少なくありませんが、半年あるいは一年間、起承転結が整い、しかも専門分野の先端的研究を踏まえた授業をすることは、その道のプロフェッショナルにこそできる仕事であって、皆様方が御想像なさるほど簡単な仕事ではありません。アメリカの大学教師の授業の運び方の巧みさは、まるでアクロバットを思わせるほど見事であります。アメリカでは、教えることのプロフェッショナルであることこそが、大学教師の第一の存在意義として位置づけられているようであります。
 ところが、日本の大学ではどうなのでしょうか。大部分の大学教員は、教育よりも研究こそがみずからの使命であると心得ているかのようであります。そのため、自分の研究上の関心に合わせて偏った授業をする人が多いようですし、特に人文社会系学部では、かつて森嶋通夫先生がいみじくも御指摘なさったとおり、日本の大学教授は、教室で自説を展開し、学会で通説を語るという傾きが依然として強いようであります。
 最初に申し上げたいのは、日本の大学での教育の現状を知る者からすれば、今回の法人法案の評価すべき点の一つは、あるいは法人化がもたらすものと期待される効果の一つは、大学教育の改善であります。その点についてまず確認しておいた上で、以下、研究面での法人法案のはらむ問題点について、私見を忌憚なく披露させていただきます。
 先ほど、日本の大学教員は、教育を軽視する反面、研究を重視するかのように申し上げましたが、日本の大学教員の研究成果は国際的に見ていかがなものでしょうか。
 世界の大学を分野別にランキングすることがしばしばなされております。序列の指標は何なのかというと、各大学に所属する教員が過去何年間かの間に著した専門誌に掲載された論文数、または論文の総ページ数、あるいは所属する教員が著した論文の総引用回数であります。
 こういう基準のとり方に問題があることは百も承知の上でのことですが、何はともあれ、そういう基準で世界の大学を序列づけすれば、百位以内に日本の大学が一校でも登場する分野の数は、そう多くありません。個人として世界の最先端に位置づけられるすぐれた研究者は、それぞれの分野に必ず少なくとも数人はいます。しかし、組織の構成員すべての業績の集計量で見ると、日本の大学の序列は極めて低くなるのです。
 ということは、教育のみならず研究の面でも、日本の大学はいまだ発展途上の段階にあると言わざるを得ないのであります。この現状をある東京大学教授は次のように表現いたしました。日本の国立大学は、どこをどう変えても今より悪くなることはない。
 しかし、誤解のないようつけ足しておかなければならないのは、次の点であります。日本の私立大学もまた国立大学と大同小異というよりも、研究面に関する限り、私立大学は国立大学の後塵を拝しているというのが偽らざるありさまであります。
 多少話が飛躍するようではありますが、日本の大学教員の研究業績が総じて乏しいのは、国立、公立、私立などの経営形態に由来するのではありません。実際、アメリカの州立大学の中には、私立大学にまさるとも劣らない研究業績を誇るところが少なくありません。
 では、何が問題なのか。その答えは次のとおりであります。第一に、日本における科学、学術研究への社会的関心と評価が、欧米先進国のそれらと比べて、いささかならずいびつであること。その結果、科学、学術に対する国の出資といいますか、お金を出すのも非常に少ない。第二に、科学研究費の配分の仕方が決してフェアでない。第三に、日本の大学の仕組みが、教員に研究、教育に没頭することを許さないこと、言いかえれば、研究、教育の妨げになる雑用が多過ぎることであります。
 さて、学術研究の成果は、個人の能力と努力のたまもの以外の何物でもありません。学者の世界は、本来的に個人主義の貫徹する世界なのです。もちろん、チームをつくって研究することは、特に実験科学の場合必要ではあります。研究チームを構成し組織的な研究を推進するのは、あくまでもチームリーダーとしての個人なのです。
 すぐれた研究者もおれば、劣った研究者もいます。若いころ前途有望視されていた研究者が伸び悩み、結局は大した業績を上げることなく学者人生を終えるという例は決して少なくありません。逆に、若いころには目立たなかった研究者が予想外の大成功をおさめるという例も少なくありません。
 なぜこんな当たり前のことを殊さらに申し上げるのかというと、法人法案が個人の評価ではなく組織の評価に重きを置き過ぎているからであります。例えば、二つの組織、すなわち大学または同一分野の学科、専攻を比較するに当たって、一方の大学には、ノーベル賞受賞者が一人いるけれども、他の教員の業績は押しなべてぱっとしないといたします。他方の大学あるいは学科には、世界に名を知られる卓越した研究者は一人もいないけれども、教員一人当たりの平均論文数で比較すると前者を圧倒しているといたします。一体、どちらの組織の方が高い評価を受けてしかるべきなのでしょうか。
 組織とは個人の集合体であります。研究は組織で行うのではなく、個人の着想と独創こそがすぐれた研究成果のシーズなのです。
 国が大学に与える資金は、人件費等の経常的な出費に充てる運営費交付金と競争的研究資金の二様に分類されるようですが、いわゆる二十一世紀COE拠点形成プログラムに見るとおり、これまでの個人を対象とするCOEプログラムは廃止され、かわりに大学の学科、専攻という組織を対象とするよう、支援体制が再編成されました。これは明らかな改悪であります。個人こそが研究の推進者であるという研究個人主義の観点に立てば、こうした改編が研究を阻害しこそすれ、推進することはあり得ないことが浮き彫りにされて見えてまいります。
 また、競争的資金の占める割合を高めることは、予算制約のもとで費用対効果という観点から望ましいことだと言えます。しかし、若手研究者の萌芽的研究をどのようにして発掘するのか、科学研究費配分をよりフェアなものとするためにいかなる措置を講じるべきかなど、競争的資金の配分方式の抜本的な改編が望まれます。また、後ほど申し上げる、いわゆる旧帝大と地方大学との間にある厳然たるインフラの格差を是正する予算措置をあわせ講ずるべきであります。
 今ある大学制度のもとで欠如している自由で競争的な研究環境をつくるべきである、言いかえれば、学術研究の場にも市場原理を持ち込むべきであるとの現状認識が、大学改革のそもそもの原点にあったはずです。研究の主体は組織ではなくして個人であるという私の仮説から出発すれば、法人法案の目指すところは、多少大げさに過ぎるかもしれませんが、日本の国立大学のソビエト化にほかなりません。
 中期計画、目標を評価委員会の意見を聞いた上で文部科学大臣が認可して、六年後に中期計画の達成度につき評価委員会が評価を下すという図式は、かつてのソビエト連邦の経済運営をほうふつとさせます。評価委員会はソ連の国家計画委員会、大学法人はソ連の工場なのです。ソ連の経済体制の方が自由主義経済体制をしのぐであろうというのが七〇年代半ばごろまでの常識だったのですが、その常識は七〇年代後半に入り、物の見事に覆されました。
 それと同じく、組織を研究の主体とみなす計画主義的な大学改革もまた、それほど遠くない将来、憂き目を見るであろうことはほぼ確実だと言っていいのではないでしょうか。なぜそうなのかは、経済を計画するのが不可能だったのと同じく、科学、学術研究もまた、計画することは不可能なばかりか有害だからなのです。研究には多大な不確実性がつきまといます。研究成果のいかんを事前に予測することは、神ならざる人間にとっては不可能なしわざなのです。したがって、研究は経済以上に中央集権的な計画になじまないのであります。
 必要なことは、個々の大学法人に対してできる限り多くの自由度を与えて、それぞれの大学法人が固有の、一律でない目標と評価基準に基づき、創意工夫を発揮することを督励し、多様な大学法人をつくる余地を与えることなのです。
 従来、国立大学に対して、国は、金は出すけれども口は出さないという方針で臨んでまいりました。口を出さなかったから国立大学の研究のレベルが低かったのだという必ずしも誤りとは言えない命題を、口を出せば国立大学の研究レベルが引き上げられるという命題に短絡させてはなりません。前者が後者を論理的に意味しないのみならず、科学、学術研究という観点から見ると、後者の命題は偽り、偽である可能性が極めて高いのです。
 八〇年代末、私は、国立大学を都道府県に移管すれば、各自治体は創意工夫を発揮して、個性と特色のある大学づくりが行われ、いい意味での競争が促されるという趣旨の論考を書いたことがあります。要は、各大学に創意工夫を発揮させる余地をいかにして確保するかなのです。各大学法人に運用面での自主性を担保するよう、法人法案に盛り込まれた規制的措置を見直すことをこの場をかりて切にお願い申し上げる次第であります。
 例えば、経営協議会の委員の総数の二分の一以上が外部有識者でなければならないといったたぐいの規制は取り除くべきだと私は考えます。なぜなら、元企業経営者などの外部有識者に経営協議会に加わっていただくことがいいことなのか悪いことなのか、その占める比率はどの程度が適切なのかは、先験的には判断の下しようがない問題だからであります。試行錯誤の末に、また他の法人の成否を見ながら、それぞれの法人がみずからにとって最適な委員構成にたどり着く、これしかないのです。経営協議会や役員会の構成については、あくまでも大学法人の自主性にゆだねられてしかるべきなのです。
 ただし、次のことに十分留意しておかなければなりません。もともと東京大学を初めとするいわゆる旧帝大ないし戦前からある大学と戦後に設置された大学との間には、講座制と科目制という予算算定の根拠に差異があり、配分される校費の金額における有意な格差が長年にわたって存続してまいりました。
 その結果、来年度を競争の出発点といたしますと、競争に参加する大学法人間で初期条件に有意なる格差が存在することは否定するべくもありません。自由競争社会における公正を担保するためには、競争参加者の初期条件にいささかの差異もあってはなりません。これは経済学のABCの教えるところであります。したがって、長年にわたり培われた初期条件の格差を埋め合わせるための適切な手だてを文部科学省及び評価委員会は運用面で講じるべきであります。
 そして、少々長い時間がかかるでしょうが、初期条件の格差に起因する不平等を文科省の手によって是正していただかなければなりません。こうした措置を講じることは、制度変更に伴うコストとして、変更を実施する主体である政府が負わなければならない責務と心得るべきなのです。
 私自身は、もともと地方分権論者なのですが、地方の国立大学は、地方分権を推し進める上で不可欠のインフラだと考えます。それゆえ、法人化法案が地方の大学を衰退させる危険性をはらむとすれば、その点を見過ごして済ますわけにはまいりません。
 次に、最も重要な問題の一つである評価についての私見を申し上げます。
 そのよしあしは別にして、学問の細分化が一直線的に進んだ結果、一つの研究プロジェクトからいかほどのオリジナルな成果が期待されるのかを的確に評価できるのは、数人ないし数十人規模の狭義の専門家に限られます。
 そのため、多くの専門誌は、匿名の査読者、レフェリーの評価を踏まえた上で投稿論文の掲載の可否を決めるのを慣行といたしております。ほとんどの専門分野においては、レフェリーつきの専門誌上に掲載された論文の多いか少ないかに応じて、またそれらの論文が何度引用されたかによって研究者の業績が評価されるのです。アメリカの大学教授の来年度の年俸がどれだけふえるのかは、一に今年度の業績、すなわち論文の数と質に応じて決まるのです。要するに、アメリカでは、プロ野球選手と大学教授は同じ扱いを受けるのです。
 大学の学科の評価は、所属する教員の論文の合計数などによってなされます。そのため、大学間の人材の引き抜き合戦にはすさまじいものがあります。外国にもリクルート網を張りめぐらせて、優秀な人材を集めることに余念がありません。要するに、組織は、個人の業績の集計量に応じて評価されるのです。日本の大学の研究のレベルを向上させる最善の策は、アメリカの大学に倣って優秀な若手研究者を輸入することなのです。それにまさる特効薬はないはずです。
 さて、六年間という期限を定めて中期目標、中期計画を策定し、組織を評価の対象に据えるという法人法の趣旨は、集団主義の国、日本らしさを物語って余りあるように見受けられます。それが研究のフットワークをのろくするという懸念もまたぬぐえません。
 と同時に、それは、さきに申し述べましたとおり、意図せざる国立大学のソビエト化を意味するのではないでしょうか。当初は市場原理を導入することを目標としてスタートしながら、皮肉なことに、結果的には中央統制色の強い反市場的な代物となってしまったのはまことに残念であると同時に、その先行きについて懸念をぬぐえないのであります。
 科学、学術研究にとって、画一性は、その障害となりこそすれ、促進剤であろうはずがございません。科学、学術の研究を促進するには、多様性を確保することが何よりも肝心なのです。そのためには、学界における個々の研究者の評価こそが重んじられるべきであって、組織を評価の対象としたり、評価する主体が中央集権的な委員会であったりしてはならないのです。
 加えて、有用性という、役に立つという尺度で学問の価値をはかるという愚を犯してはなりません。
 かつて京都大学数理解析研究所の教授を務められた伊藤清先生は、確率微分方程式という全く新しい分野を開拓されました。伊藤先生は、御自身の興味と関心の赴くまま新領域の開拓に励まれたのですが、その後、数十年を経た後に、伊藤の確率微分方程式は、金融工学にとって欠かせぬ基本的ツールの一つとなったのであります。
 学問の価値をはかる尺度をどうするのかもまた、大学法人の自主性にゆだねられてしかるべきではないでしょうか。一見無用の学を尊重する大学法人があってもいいではありませんか。一見無用であっても、実は思わざる応用分野を先々だれかが見出して有用性を発揮する例は枚挙にいとまがございません。目先の有用性を尊重することは、戦略的に見ても決して賢明な方策とは言えないのであります。
 最後に申し上げたいのは、日本経済が目下の長期停滞から抜け出すためには、工業化社会からポスト工業化社会への速やかな移行をなし遂げることが必要不可欠だと私は考えます。一九六〇年に策定、公表された所得倍増計画が、科学、学術研究を経済のしもべとする、すなわち、狭義の有用性を学術研究の評価基準とすることを政府が公式に認知した皮切りであります。以来、日本の科学、学術政策はこの路線上を突っ走ってまいりました。
 確かに、工業化社会における高度経済成長の動力源の一つとして、こうした路線が欠かせぬ役割を果たしてきたことは紛れもない事実であります。しかしながら、こうした学術政策がポスト工業化社会向きでないことは火を見るよりも明らかではありませんか。一見したところ無用の学、とりわけ人文社会科学や芸術の振興を、有用な学の振興と相またせることこそがポスト工業化社会への移行のために必要不可欠な戦略であることを、手前みそながら強調して、私の意見陳述を終えさせていただきます。(拍手)

○児玉委員 日本共産党の児玉健次です。
 私は、今の日本の大学、大学院の教育をこのまま放置しておくことはできない、文字どおり民主的に改革する点で国民の力を結集すべきだ、そういうふうに考えています。そのことを最初に述べた上で、佐和先生に最初にお伺いしたいと思います。
 九九年に刊行された「激震!国立大学」、未来社のものですが、その冒頭のところで佐和先生が座談会をなさっていて、そして先ほど御意見をお述べになった評価に関連して、「国立大学をエージェンシー化すれば、基礎科学や人文科学があっという間に地盤沈下することは火を見るより明らかです。」こう述べられた上で、「学者なら誰しも、それぞれの専門分野があって、自分の専門分野の研究者の業績評価は、自信を持ってできるはずです。」そして、その御発言の最後のところで、「総合大学をトータルに評価のできる人など、本当にいるんでしょうか」こういうふうにお述べになっているところを拝見しました。
 そして、四年前ではあるけれども、ここで先生が危惧された中身が、残念ながら、今度の法案の中に非常に不幸な形で盛り込まれているというふうに判断せざるを得ません。
 そこで、先生に二つ御質問をしたいわけですが、高等教育、特に大学、大学院での研究者の評価の問題について、評価一般ということも非常に重要ですが、今私たちがこの法案で直面しているのは、文部科学大臣が中期目標を定め、そして中期計画を文部科学大臣が認可する、そこにどれだけ到達するかが評価のスタンダードになるんじゃないか。
 先日、四月三日の本会議で、私どもの石井郁子議員の質問に対して遠山大臣は、「これまで、国立大学の学問研究の内容や計画を政府が一方的に定めたことはありません。」こう申しました。政府が一方的に定めたことがないことを今やろうとしている。
 そういう中で、先生がこの書物で御指摘なさった基礎科学や人文科学、それらがどんな困難に逢着することになるのかというあたりを一つはお聞かせいただきたい。
 関連して、先ほど先生のお話の中で、京都大学の伊藤清先生のお話がございまして、数十年のスパンで見事にそれが今現実の力となってきている。こういったことがちゃんと保障される大きな理由というのは、多分大学の自治が京都大学にあったからだと思いますし、そしてその自治は、教員の人事を大学、学部がそれぞれの自主的、自律的な判断で進める、そこに根拠があったと思うんです。
 今度の法案では、教育公務員特例法が適用除外ということになりますので、そのあたりも含めて、この後の、特に基礎科学、人文科学のぶつかるべき困難について御教示いただけたらと思います。

○佐和参考人 要するに、基礎科学とか人文科学がどうなるかというようなことにつきましては、私は、もちろん大変懸念はいたしております。つまり、例えばすぐに特許を取ってお金になるような研究に重きが置かれて、そういう虚学、実学に対する虚学ともいうべき学問分野が軽視される可能性を大変危惧いたしております。
 しかし、それは結局のところ、これは大変希望的観測を申し上げるわけですけれども、大学のまさに運用上の問題で、つまり、さっき石先生が繰り返しおっしゃっていたように、要するに、まさに学長ないしその大学の打ち出す方針だと思うんですね、一つは。
 それから、評価委員会が果たしてそういうものに対してきちんとした正当な評価を下すかどうかということで、結局、大学の方はさておき、問題は、評価委員会というのが後々設けられることになっているそうでございますが、それにどういう人を、どういう構成にするかということにやはりかかっているということが一つ。
 それからもう一つは、これもさっき申し上げたことの繰り返しなんですけれども、結局のところ、大学がどういう方針でやるか、そしてそれに対して評価委員会がどういう評価を下すかということが問題である。そして、ただしその次に、総合大学の話ですけれども、とにかく、普通、総合大学というのは文科系、理科系、またその文科系、理科系の中もいろいろ分かれて、大体十ぐらいの学部があるんでしょうか、そういうトータルに評価するというようなことは、これはだれにもできないことなんですよ。
 さっきも言いましたように、一人ノーベル賞の受賞者がいればその大学は光り輝いて見えるわけですが、そうなのか、あるいは平均値が高ければいいのかとか、それから、例えば特に人文社会系の学問の場合は、いわゆるアカデミックな仕事というのといわゆるジャーナリスティックな仕事、あるいは書物を刊行するということと専門誌に論文を書くということをどっちを高く評価するかとか、やはり非常に評価の難しい点があるわけですね。
 ですから、そういう意味で、特に一つの専門分野についてこの大学はよくやっているかどうかということの評価はある程度までできても、さっきお読みいただいたところですけれども、総合大学、それをトータルに見て、この大学はすぐれている、あるいは五つの大学に序列をつけろということは大変難しいということでございます。
 ですから、私は、さっきお読みいただいたのは、随分昔のことでございますが、そこで申し上げていることは今も考えはちっとも変わっておりません。

○児玉委員 私、二つのことを一度に申したので、大変失礼しましたが、そういった中での教育公務員特例法の適用除外の問題と、もう一つ、私、先ほど先生のお話で、このレジュメといいますか原稿の算用数字の二十七のところ、六ページの二十七のところで、「制度変更に伴うコストとして、変更を実施する主体である政府が負わなければならない責務」についてお述べになっております。
 それで、今度の法案は、もしそれが実施されると、独立行政法人通則法三十七条に従って企業会計原則が準用されることになる。そういう中で、この法案の附則九条に、国立大学法人成立時に国が有する権利及び義務を当該国立大学法人等が承継すると書いてあります。
 法人成立時の国の債務はどのくらいだとこの前文部科学省に聞きましたら、二〇〇二年で一兆二千七百十四億だ、そしてそれは利息として二千五百十三億をも含む、それらを当該大学が承継する。これでは、言ってみれば、新しい形の大学の発足時にとんでもない荷物を負わされてしまうことになる。国立学校特別会計というのはこれまで国の責任で維持されていて、個々の大学にそれが降りかかるということはなかったわけですけれども、その面でも先ほど先生のおっしゃった二十七項目の御指摘と全く逆だなと思います。
 その二点について、恐縮ですが。

○佐和参考人 教育公務員特例法というのは、もともと私どもが公務員であるから、公務員法を、まず例外的に教育公務員についてはある程度の自由を与えろという趣旨のもとにつくられた法律だと思うんですが、実は公務員でなくなるわけですね。私は、個人的には公務員でなくなることを大変うれしく思っております。
 ですから、そういう意味で、実質のところは、これも先ほど申し上げたことで繰り返しになりますが、要するに、教員たちに対してどういうふうな自由度を与えるかというのは、これも結局のところ、それぞれの大学法人が決めることだと思うんですね。
 ですから、例えばどこかで講演した、あるいは原稿料の三〇%を大学が巻き上げるというような大学が出てくるかもしれない、あるいはそういう一切の給与外の所得を得ることを禁止するというような大学も出てくるかもしれない。しかし、それは、そういう大学にいれば、みんなこれはいたたまれなくなってというようなことになるはずです。だから、そういう意味で、これはどうなるかということはやはりそれぞれの法人が決めることであるということですね。
 それからもう一点、コストの問題ですけれども、国鉄が民営化されたときに清算事業団のようなものができましたね。それと全く同じことをせよとは言いませんが、似たような措置が、やはりスタートラインに並んだときに一線に並んでいるためには何らかの措置が必要ではないか。特に病院の赤字というのが一番の赤字の源泉だと思うんですけれども、そういったことをどう改善するか、あるいは今までの過去に蓄積された負債をどういうふうに始末をつけるのかということについては、十分御検討いただきたいと思います。

○児玉委員 ありがとうございました。
 石先生にお伺いしたいと思います。
 法人化特別委員会の委員長をなさっていらっしゃるので、この問題について私たちはキーパーソンの一人だ、そういうふうに考えております。
 法案について先ほど話を伺いましたので、多少この後のことも含めて具体的に伺いたいんですが、二月十日に国立大学長会議で、法案の概要、多分未定稿というふうに書かれていたと思いますが、これが皆さんのところで説明をされる。先日、私、先生からお話を伺うことがございましたけれども、そのとき、国立大学協会の中で、設置形態の変更にいろいろな見方があり、意見が割れている、こういうふうにもおっしゃったと私は記憶しております。どのように国立大学協会の中で意見が割れているのか。
 それで、先ほど先生のお話の中で、その後、ブロックに分けた説明会が行われたというお話でしたが、私の承知しているところでは、例えば、三月十九日に、法案が全体としてその姿をあらわして最初の説明会が関東甲信越ブロック学長説明会という形で行われて、もしかしたら先生も御出席だったと思いますけれども、その議事録の概要を見ていると、文部科学省の役人の説明が全体の八割を占めていまして、そして、意見を言うのじゃなくて、質疑応答という形で、残り一ページ分、質疑応答になっている。ここは意見表明の場というふうに見ることはできないんじゃないか、私はそう思って議事録を拝見したんですが、その点、いかがでしょうか。

○石参考人 国大協で何をやっているかということのおさらいになるかと思いますが、国大協で、九十九、今九十近くになってきておりますが、すべての学長が一枚岩で全部イエスと言っているかといえば、条件つき賛成もあるし、条件つき反対もあるし、いろいろあると思います。きょうここでも議論になっているように、一〇〇%賛成という人はやはりいないし、一〇〇%反対もいないと思いますよ。したがって、私の表現では、意見が割れているという意味は、そこで申し上げた程度の差を言っているだけです。ただ、国大協としては理事会、それから意見集約、それからさまざまな機会を設けて、今、白紙に戻すべきであるとか、決定的に断固反対であると表明する学長はおりません。それははっきり言えると思います。
 それから、関東甲信越も含めて七地区でやりました地区の学長説明会で、やはり膨大な法案でございましたし、我々はその法案の内容をよく理解したいという趣旨で説明を受けましたから、そこで法案に耳を傾ける。そこで別に質疑だけに限定してくれということではなくて、自由に議論を言ってくれという趣旨で申し上げております。そういう意味で、私、議長をやっておりましたから、そういう趣旨で申し上げたんですが、やはり法案が既定の形で国会に出て、その内容を理解したいというトーンが出席者の中には強かったのかもしれません。
 ということは、今の段階で白紙撤回等々という時期ではないというふうに各人が判断されてそういう議論になったと思いますが、本格的に反論をする、本当に反対するという場は幾つかあったんですが、それは出ておりません。

○児玉委員 最後の質問をしたいんですが、今おっしゃった説明会でも、極めて遠慮がちですけれども、しかし、法案の最も根幹に触れた部分の質疑が出ておりますね。
 そして、あわせて、伺っているところによれば、二月二十四日の国大協の理事会で、長尾会長が、法案が国会に提出された段階でその内容を検討し、国大協として表明すべきことがあれば、内容をはっきり示して、理事会で承認を得て発表するなり、あるいは臨時総会を開催して議論することも視野に入れて検討する、こういうふうに述べていらっしゃるようですが、この点の御計画はいかがでしょうか。
 それをもって、終わりたいと思います。

○石参考人 恐らく、法案の概要というので大分議論をしてまいりました。というのは、国会に上程するまで法案を見せてもらえませんでしたから。概要という形で議論をし、そして、二月二十八日、閣議決定があって、国会に出たわけですね。
 そこで法案の全容が明らかになったという段階で、法案の概要と法案そのものの間にギャップがあって、一つあったのが、御承知の、省令によって学部とか研究所等々を決めるといったのがなくなった。私どもは、そこが一番大きい、かつ、唯一、検討をし、国大協として説明しなければいけない場所だというふうに理解をいたしました。
 そこで、それに対しまして、法人化特委の方では早速会合を開きまして、中期計画、中期目標の中で、しかと省令にかわる形の内容を、例えば学部がどこどこにあり、研究所がどこどこにあり等々を書き込んで、それによって文科大臣が定めるわけでありますから、言うならば、要するに省令に匹敵するような効力を持つであろうし、逆に言って、何も国から学部なり研究所なりの設置をギャランティーしてもらうことはないだろう、自由に自分たちで決め、自分たちで、極端なことを言えば廃止するということもあってもいいので、それは、先ほど来申し上げている自由、裁量の幅が広がったというふうに理解しております。
 ただ、いろいろな問題を抱えている研究所をお持ちの大学もないことはないんですね、正直申しまして。そうなると、従来の省令等々で保障されている方が、予算面あるいは設置形態の変更等々ではギャランティーされているのではないかということで、この省令化について議論になったのは事実でございます。ただ、それについては中期計画、中期目標でしっかりと大学の意思として表明できるんだから、それでいいだろうというふうに我々は理解しております。
 それから、臨時総会云々というのはまだくすぶっておるようでございますが、国大協においては、たしか、九十九の前提として、十三ぐらいの国立大学の学長の連名があれば臨時総会が開けるというシステムになっておりますが、その要求も来ておりませんし、言うなれば、今やっております説明会等々で十分に意見を表明する場を確保し得たというふうに理解しておりますので、総会までこの法案の流れを見て、総括的なことは六月の総会で議論したいと考えております。

○児玉委員 ありがとうございました。
 両先生に御質問できなかった失礼をおわびします。

 
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