平成十三年六月十二日(火曜日)
午後二時四十四分開議
出席委員
委員長 高市 早苗君
理事 斉藤斗志二君 理事 鈴木 恒夫君
理事 田野瀬良太郎君 理事 高橋 一郎君
理事 平野 博文君 理事 藤村 修君
理事 西 博義君 理事 都築 譲君
小渕 優子君 岡下 信子君
河村 建夫君 砂田 圭佑君
谷垣 禎一君 谷田 武彦君
谷本 龍哉君 馳 浩君
林 省之介君 増田 敏男君
松野 博一君 水野 賢一君
望月 義夫君 森岡 正宏君
大石 尚子君 今野 東君
葉山 峻君 肥田美代子君
牧 義夫君 松沢 成文君
山口 壯君 山谷えり子君
山元 勉君 池坊 保子君
斉藤 鉄夫君 武山百合子君
石井 郁子君 児玉 健次君
中西 績介君 山内 惠子君
松浪健四郎君
…………………………………
文部科学大臣政務官 池坊 保子君
参考人(学校法人渋谷教育学園理事長) 田村 哲夫君
参考人(評論家) 池本 薫君
参考人(武蔵野女子大学教授) 杉原誠四郎君
参考人(全日本教職員組合中央執行委員長) 松村 忠臣君
参考人(東洋大学社会学部教授) 森田 明美君
文部科学委員会専門員 高橋 徳光君
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本日の会議に付した案件
地方教育行政の組織及び運営に関する法律の一部を改正する法律案(内閣提出第四三号)
学校教育法の一部を改正する法律案(内閣提出第七一号)
社会教育法の一部を改正する法律案(内閣提出第七二号)
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○高市委員長 内閣提出、地方教育行政の組織及び運営に関する法律の一部を改正する法律案、学校教育法の一部を改正する法律案及び社会教育法の一部を改正する法律案の各案を一括して議題といたします。
本日は、各案審査のため、参考人として、学校法人渋谷教育学園理事長田村哲夫君、評論家池本薫君、武蔵野女子大学教授杉原誠四郎君、全日本教職員組合中央執行委員長松村忠臣君及び東洋大学社会学部教授森田明美君、以上五名の方々に御出席をいただいております。
この際、参考人の皆様方に一言ごあいさつを申し上げます。
本日は、御多用中のところ本委員会に御出席をいただきまして、本当にありがとうございます。各案につきまして、それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお聞かせいただきまして、審査の参考にいたしたいと存じますので、どうかよろしくお願いいたします。
次に、議事の順序でございますが、田村参考人、池本参考人、杉原参考人、松村参考人、森田参考人の順に、お一人十五分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑に対してお答えをいただきたいと存じます。
なお、念のため申し上げますが、御発言はすべてその都度委員長の許可を得てお願いいたします。また、参考人は委員に対し質疑ができないことになっておりますので、あらかじめ御了承願います。
それでは、まず田村参考人にお願いいたします。
○田村参考人 二十一世紀、時代は、変革、リフォームを求めていると言ってよろしいと思います。日本では、小泉内閣の高い支持率がそれを示していると思いますし、また、アジア、ヨーロッパ大陸の向こう側のイギリスでは、ブレア首相が、経済あるいは教育の変革と将来への投資ということをテーマにして地すべり的勝利を上げ、再選されました。まさに時代は新しい時代を求めていると言ってよろしいのだろうと思います。
私たちの日本の国の教育については、実は昨年、亡くなられました小渕元首相のもとで、二十一世紀に向けての変革ということで教育改革国民会議が開かれました。私もその一員として参加させていただきましたが、個と公の関係、あるいはいろいろな制約なしに新しい時代を議論するということで、あえて総理大臣の私的諮問機関という形での会議がスタートいたしました。
二十六人の委員による、教育の基本にさかのぼった幅広い今後の教育のあり方についての検討をいたし、昨年十二月二十二日、報告を取りまとめております。いわゆる「十七の提案」と言われるものであります。その中には、教育振興基本計画を初めとする幾つかの、教育の未来に対する新しい提案が含まれているものというふうに私ども信じております。
提言を踏まえまして、教育改革関連法案が早速に国会に提案され、このように審議されているということは、国民会議の一委員として関係した私にとってもまことに喜ばしく、ぜひ、慎重に審議された上、一刻も早く成立させていただくことを願うものであります。
さて、今回の改革関連三法案でございますが、地方教育行政の組織及び運営に関する法律、学校教育法、それから最後に社会教育法、この三つの法律の改正でございます。
第一の法の改正にかかわって、具体的なテーマを申し上げて、一つずつ感想を述べさせていただこうと思います。
まず一点目は、教育委員会の活性化という問題でございました。教育改革国民会議でも、このことは大きなテーマとして大きな議論を重ねてきた内容であります。
今回の改正は、一番目に教育委員の人選の問題について触れております。そしてさらに、教育委員会の運営にかかわって、透明性を高めるということを強く指摘しているわけであります。この人選の問題、透明性を高めるということは、いわゆる二十一世紀のキーワードであります自由社会、つまり、自由という社会には、透明性を高め、そしてそのことで評価をされる、こういう必然性があるという条件を考えますと、こういった改正は、求められる改正の一つの条件を満たしているというふうに考えられるところであります。
第一の、教育委員の人選の問題でありますが、基本的に、教育委員会のメンバーというのは多様な構成をされなければならないものというふうに思っております。従来の枠にとらわれない、幅広い人選が行われることを求めているわけであります。さらにはまた、会議に関しても、単に公開するだけではなくて、積極的にこれを広報し、そして開催日時を工夫する。例えば夜やるとか、土、日にやる、そういった工夫をすることによって、教育委員会が実質的に開かれたものになり、同時にそのことが、人々の、住民のものになるということの条件になるというふうに考えております。
これらのことに関して、今回の法改正は幾つかの点で、委員の構成、会議の公開、あるいは校長の意見尊重、教育相談の体制整備といったような形で教育委員会の活性化を図っておるというのは、まことに適切な改正であるというふうに感じております。
ただ、今後これらの改正が実際に実効があるものになるためには、各地方公共団体が積極的な教育委員会への取り組みをされることが期待されている、これによって法改正が生きるか生きないかが決まりますので、このことはぜひとも、それぞれにおいて重要なテーマとして検討していただきたいと思っております。
二点目の、地方教育行政の組織及び運営に関する法律案の改正点について申し上げます。二点目は、指導の不適切な教員の問題であります。
教育というのは人と人との接触が基本でありますので、教員の問題はまことに重要であります。中でも、特に初等中等教育と言われる段階においては、全国的に見ますと何といっても公立学校が中心になっておりますので、それが柱になってしっかりやっていただかないといけないわけですが、私立学校と違って、公立学校の場合には残念ながら幾つかの問題点があります。本来はいい点なのですけれども、つぶれることがないというこのことが、逆にマイナスに働いてしまうという結果、公立学校の現状を見ますと、先生方に、非常によくやる先生とほとんどやらない先生に極端に分かれてしまう、こういう現象を起こしております。
よく言われますが、教師の仕事というのは一般的には、どんな子供にも対応できるということが求められるわけですが、実際にはそれはなかなかに難しいわけでありまして、だれかには合うけれどもだれかには合わない、そこでいろいろ工夫する、そういう仕事になるわけです。
実は、だれにでも合うというのが理想型でありますが、だれにも合わないという人もいないわけではありません。このだれにも合わないという人は、私はやはり仕事をかえた方がいいのではないかというふうに思うわけでありまして、そういうことがはっきりと手続的につくられていなかったということに、今までの公立学校の先生方にとっての不幸があったのではないかというふうに思います。一人一人が評価されて、そしてその結果をフィードバックするというシステムが、公立学校の教育の中でも行われなければならないだろうというふうに思います。
私も教師の生活をしておりますから、教育における評価が大変難しいことは知っております。なかなかに簡単にはいきません。会社とかそういったところで行う評価がそのままできるというわけがありません。しかし、評価をしなければならないというのが今の時代の要請であります。一切しないで個人の良識に任せるということでは、今、世の中は納得しないだろうというふうに考えております。先生にとっては三十数年の一年かもしれませんが、子供たちにとってはかけがえのない一年になるわけですので、その分については十分に、大人の責任において、この問題をきちっと手続的な明快な対策を立てて、先生にとっても子供たちにとっても不幸な状態が起きないように考えるべきだというふうに思うわけであります。
さらに、このような考え方を基本にして、悪い評価が繰り返されても改善されないという先生については、転職の道を広げるということを提言しているわけです。もしこの制度でもだめなら、最終的には職をかえる、つまり転職と免職という制度をきちっと活用するということが今求められているポイントではないかというふうに考えるわけであります。
かかって評価が難しいということが前提にありますので、この運営については、慎重な運営が行われなければならないことは言うまでもありません。しかし、やらないで済むというわけにいかないということをここで改めて申し上げておきたいわけであります。
さて、二番目の法律改正にかかわって、学校教育法の改正がございます。
この学校教育法の改正については三つの点が挙げられています。一つは、小学校から高校までにおける社会奉仕体験活動、自然体験活動の重視という点であります。二番目が出席停止、これは要件、手続を明示したということと、それから出席停止後の学習支援を明快に規定したというところに特徴がありまして、これが二番目の改正点であります。三番目は、大学、大学院の飛び入学にかかわってのことであります。
一番目の、社会奉仕体験活動にかかわって少しく御説明を申し上げたいというふうに思います。
現在の子供たちの状況を見てみますと、都市化とか少子化、地域社会の人間関係の希薄化などを背景に、さまざまな体験が不足し、社会性や豊かな人間性が十分に育成されていないということが懸念されるわけであります。具体的に言えば、豊かさの結果失われた、学習に対するモチベーションの欠落という現象であります。つまり、食べ物一つとっても、なければ冷蔵庫をあければある。街角のスーパーに行けば常にある。そういう状況では、子供たちは、食べ物がいかに大切か、あるいはつくるにどんなに苦労したかということを体験する機会が全くありません。そのことはいいことなんですけれども、いいことが逆にマイナスに働いているという、先ほど申し上げたようなことを繰り返すわけでございますが、いいことが逆にマイナスに働いているという事実を率直に認めるべきだろうと思います。
したがって、大人の責任として、子供たちにいろいろな体験をさせる、自然体験という形あるいは社会奉仕体験という形でいろいろな体験学習をするということが、これからは計画的な、意図的な方策として学校の現場で実施されなければならないというふうに考えております。このままにしておけば、まさに、学習をする必要性、あるいは何のために人間は学習をするのかということを気づかないままに大人になっていく子供が大量に出てくる危険があるというふうにまで思っております。
さて、このことを考えて、現在、新しい学習指導要領は、生きる力、みずから学び、みずから考える力、豊かな人間性、健康、体力といったような、どれをとっても非常に大事なことでありますが、それらを取り上げまして、その育成を図るために体験活動を効果的に取り入れていくということを提案しているわけであります。
この重要性を踏まえて、しかし、体験活動というのは、やらねばならぬことではありますけれども、なかなかに義務化、強制ということの対象になりにくいことであることはおわかりいただけることだと思います。実際にやる人たち、またその地域の問題、あるいはその子の育ってきた環境の問題、いろいろな観点から、本来、体験活動についてはその子たちにふさわしいものは何かということを現場で、その場で先生方が見るという必要があります。そういう意味で、今回の改正は、児童の主体性を大切にして、それを前提として学校が創意工夫するということが期待されている、こういった改正が行われていることはまことに結構なことだというふうに思っております。
具体例としては、現在兵庫県が、大震災の後の反省として、トライやる・ウイーク、こういった体験活動を全県を挙げて実施しております。この結果は、成果を拝見いたしますと、大きな効果が上がっていることがはっきりしております。したがって、この体験活動推進体制を自治体が協力して構築するということはまことに意義が大きいわけでありまして、それを推進させるためにも、国も、法律改正を通して体験活動の推進方策を積極的に講じてほしいというふうに考える次第であります。
もう一点、出席停止という問題がございます。
この出席停止の問題は、実は、学校における問題生徒が増大してきた、そしていじめ、暴力行為といったような問題が深刻化してきたということを受けて、他の児童生徒の教育を受ける権利を保障するために出席停止制度を適切に講ずるということが必要になってきたというふうに考えているわけであります。
このことは、この法律の改正によって、慎重な運用がされるべく手続、要件が明確化され、それが法律に明示され、いわゆるデュープロセスというものが明確にされたことによって、出席停止ということが学校現場に適切に運用される条件が整った。さらには、出席停止期間中の、出席停止を受けた生徒、子供たちの学習支援ということに関しても、今回、明快に法の中で明示しております。これらのことによって、出席停止制度の、従来もありましたが、実質上なかったものが実態として改善されていく、そして実行されていくということが期待されるわけであります。
それから、飛び入学にかかわってのお話でございます。この飛び入学にかかわっては、いわゆる規制緩和の中で、学校教育といえども、ただ受けるというだけではなくて、みずから選択する、みずからそういう道を選ぶという、そういうチャンスをつくるということの一つの象徴的な重要な出来事という意味で、この飛び入学を前向きに受けとめていきたいというふうに思っております。
高等学校二年で大学に入れるという事態は高等学校教育の空洞化を招くのではないかという御批判があることはよくわかっておりますけれども、このことについては、私ども、いろいろなところで調査した結果、そうだと言う人とそんなことはないと言う人と意見が分かれておりまして、一概には言えないと思います。
いずれにせよ、こういう新しいことを実施するについては、慎重な手続、そしてその結果どうなるかということが透明にされて評価されるということが非常に重要なことになるのではないか。そういうことが国として行われなければならない。つまり、その部分については文部科学省が、適切に行われることが確保されるような配慮を、条件を考えていただくということが必要だろうと思っております。
三点目の、社会教育法にかかわっての改正でございます。
これは先ほどから申し上げてございますが、学校、家庭及び地域の教育力の低下が指摘されている中で、学校教育の改革だけでは十分な教育成果が上げられないというふうに考えられまして、そのために、家庭教育の充実ということをテーマにして、学校が考えている、例えば体験学習とか体験活動あるいはその他幾つかの教育テーマについて社会教育が協力をしていくということを法律に明示したということが、今回の改正の特徴であります。
例えば学校外団体との学校教育の協力といったようなテーマは、この法が改正されたことによって、学校現場ではやりやすくなります。法律ができるということは大変大きな影響がありますので、この結果、社会教育法のこの改正によって、いわゆる家庭、地域、そして学校が協力して教育力が向上されていくということが期待できるというふうに思っているわけであります。
大変雑駁でございますが、駆け足で改正点を申し上げさせていただきました。
教育改革関連法案は、教育改革国民会議の次の時代を見据えた教育に対する要望を具体化する第一歩として、私どもは前向きに受けとめておりまして、ぜひひとつこの審議を進められ、実施されることを期待しているものでございます。
どうもありがとうございました。(拍手)
○高市委員長 田村参考人、ありがとうございました。
次に、池本参考人にお願いいたします。
○池本参考人 御承知のように、教育現場は今大変な多くの問題を抱えており、その中には、もはや極めて深刻な事態に至っていることもあります。しかし、これに対する施策とか政策は対症療法的でありまして、迫力に欠けると言わざるを得ない、私はそのように思っています。
一体なぜでありましょうか。その一つには、政策立案とその決定過程に原因があると私は思わざるを得ないのです。つまり、審議会段階での審議というものが、徹底した緊張感のある討論、最終的な詰めの作業、それから幅広い議論というものに欠けているという感じを、私は、ここ数年間の状況を見て感じるわけです。さらに、審議会等の提言というものがつまみ食い的に政策化されているところにも問題があるだろうというふうに思っています。とりわけ、今回の教育改革国民会議の提案、それを受けての今国会での法案審議の過程を見ると、そういう感を強くせざるを得ません。
教育論議というものは、大いにやるべきでありますが、ただやればいいというものではありません。突っ込んだ議論をして争点を明確にしなければ、国民的論議を巻き起こすことは絶対できません。残念ながら、今回の法案についての国民の関心は、決して高くありません。それは、私が今言ったようなことと、もう一つは、国が行おうとしている教育改革の全体像がはっきり見えてこないからです。そういうことも影響しているのではないかと私は思います。
さて、今国会に出されている法案に対する私の考え方を、率直かつできるだけ明快に述べさせていただきます。
まず、学校教育法の改正案でありますけれども、体験活動の充実に努めるという規定についてであります。
情報化社会というものが激しく目覚ましい進展をする一方で、我々の日常的な直接体験というものは減る一方であります。そういうことから、物事の認識とか、思考、判断、あるいは感受性、人間関係というものに悪い影響が出ている。こういうことを考えた場合、自然体験、社会体験ということは大いにやらなければならない、私は、だれよりもそれを願っているものであります。
しかし、条文にある奉仕という言葉には納得できません。奉仕という言葉は、君主とかあるいは師に謹んで仕えるという本来の意味があります。そういうものを入れ込むということは、私も戦前生まれでありますけれども、かつての強要された奉仕活動ということを連想する人が少なくないと思います。私は、言葉というものは時代をとらえた新鮮なものを目指すべきだと思います。
そこで、では私は何を言うかというと、この奉仕という言葉にかえて社会貢献活動というふうな表現なら、私は大賛成であります。つまり、自発的で自由意思による社会貢献活動であります。そういう表現であれば大賛成であります。
日本の社会というのは、もちろんヨーロッパもそうでありましょうけれども、競争社会であります。それを生き抜くためには、一人一人が、言っては悪いけれども、利己心の固まりのようになっています。我々はそういう利己心をなくさなければいけない。それは、外からあるいは上から強要する公共心ではない。自分の心から発する内発的な公共心というものを育てていかなければならぬ。そういう意味で、社会奉仕という言葉を入れることによって、それはマイナスに作用すると私は思います。
さらに、二十一世紀社会というのは、市民が先駆的な役割を果たす、言ってみれば市民社会の時代を志向すべきだと私は思っています。そのためには、市民一人一人が自発的に自由意思による行動をする、要するに、向こうの言葉ではありますけれども、ボランタリーな人であるべきだ、ボランタリーな社会をつくらなければいけないというふうに思います。
市民社会というのは多様で多元であり、柔軟性に富んでいます。そういう市民の集まりが自発的、ボランタリーな意思を持って行動するとき、そういうセクターが台頭するときにこそ、新しい創造的な潤いのある社会の構築につながっていくのではないかと思います。そういう未来志向的な理念を取り込んだ取り組みを、この条文においてもう少し検討してみたらいいのではないかというふうに思っております。
次に、出席停止でありますけれども、これの要件を明確にした。しかし、明確にすることによって、安易な出席停止措置がとられる危険性を感じざるを得ません。
この制度というのは、学校の秩序を守る、維持するということと、それから他の児童生徒の学習権というものを保障するという制度でありますけれども、その運用は慎重であるべきことは言うまでもありません。
昨今の教育現場の荒れようを見ますと、出席停止措置というふうに傾斜したくなる気持ちも理解できないではありませんけれども、いわゆる問題行動の児童生徒というものを家庭に戻したところで、事態は好転することはありません。今回は、その支援の手だてをしっかりすると言っていますけれども、それにも限界があります。私は、出席停止するのではなくて、むしろ学校の中にとどめて、違う場所で、違う方法で手だてをしていくのが教育であると思います。諸外国においてはそういう措置をとっているところもあるように聞いております。
それからもう一つは、こういう、こういうという言い方はちょっと語弊がありますけれども、学校において問題行動を起こす児童生徒は、家庭内においても多くの問題を抱えている場合が多いわけです。家庭の責任だといって突き放していたのでは事態は解決しません。学校と家庭と地域住民との一体によって、そういった問題は処理していかなければなりません。特に、予防的な対策というものが重要であると思います。
そういう意味で、学校にすべて責任を持たすということではなくて、教職員、保護者、地域住民によるところの、あるいは児童生徒も入れた、学校協議会あるいは学校会議といったような組織を設けて、恒常的に、いつもいろいろな対策を練っていくということが大切ではないでしょうか。
今回の大阪教育大学附属池田小学校の事件は、学校と地域がどのようにあるべきかということを我々に突きつけていると言ってもいいと思います。
私は、数年前、ドイツのある学校の学校会議を見学いたしました。学校会議は何でもテーマになって議論できるというものではありません。学校の秩序、安全、校則、それから通学路の安全というのが主要なテーマです。私が行ったときには、武器持ち込みを禁止するというふうなことをやっておりました。
そういうふうに、学校だけじゃなくて、地域全体を含めて日常的な取り組みをすることが大切だろうというふうに思います。
次に参ります。
大学の飛び入学の拡大でありますけれども、私はその必要性を認めておりません。一体この制度ができてだれが恩恵や利益を受けるのでありましょうか。
希有な才能を持った人に対して特別枠で、要するに特例的な措置で行われている今の飛び級というものについての科学的な証明というものが十分に行われていない段階で、分野を撤廃するというのは私は無謀と思います。これでは、子供たちの競争心をあおったり、大学による学生の青田買い、あるいは最終的には高校教育の大混乱ということになるのではないかと思います。
飛び入学について振り返ってみますと、考え方に微妙な変化がある。平成九年の中教審の答申においては、希有な才能の持ち主への特別的な措置だというふうなことを言っております。それは、受験エリートとかそういうものではない、各学校に少しいるというものじゃなく、全国的にもわずかしかいないようなものですよということを言っていた。ところが、今回は、特にすぐれた資質を有する者というふうになっております。これは大きな、概念というか理念の違いが出ていると思うのです。しかも、受け入れる大学も、博士課程を有さなければいけない、持たなければいけないと言っていたのが、教育上適切な指導体制を有する大学等という条件で緩和されている。
だから、一口に飛び入学といってもいろいろな意味があるのだということを理解しなければならぬと思います。
ではここで、飛び入学は、希有な才能を持った人にはいい、特に優秀な資質の持ち主にはだめだ、僕はどちらなのかと聞かれるかもしれませんのでお答えしておきますけれども、私は両方とも否定的であります。
希有な才能の持ち主というのは、言ってみれば異才であります。それは学校教育、今の学校教育では、発見も育成も不可能に近いというのが世界的にも言われていることであると思います。今、異才な人を大学へ入れても、大学ではまたほかの教育もやっているというふうなこともありますので、両方とも反対です。それからもう一つは、人間の知識、教養というもののバランスのとれた成長ということが一番大切と私は信じているからであります。
では、特に高校である部分についてはよく勉強した、先に進みたいという人がいるとします。そういう人に対しては、高校という籍はそのままにして大学レベルの教育を受ける、単位を認定していくという制度をとればいい。もっと柔軟なシステム運用をすれば十分足りるだろうと思います。
人生は長いのです。より早く進むよりも、より深くきわめることが大切ではないでしょうか。
次に参ります。
教育委員会の規定についてはおおむね賛成でありますが、保護者を委員に入れることにつきまして、努めなければならぬというふうに言っていますけれども、これは義務規定に改めていただきたいと思います。
いずれにしても、教育委員会の活性化というのは、長年言われているけれども実効は上がっておりません。それは、根本には、顔の見えない教育委員ではいけない、民意を反映した教育委員の選出方法を、国が決めるのじゃなく、それぞれの地域の実情に応じた決め方を模索すべきだと私は思います。
時間が来たようでありますから、急ぎます。
指導が不適切な教員の免職、セットで転職という問題がありますけれども、この不適切な教員の定義及び具体的な基準づくりは極めて難しいのです。したがって、ここに恣意的な判断が生ずるおそれがあるわけです。それによって教員が萎縮し、伸び伸びとした雰囲気での創造的な授業あるいは学習行為ができないという問題もあると思います。よい教員というのは、多様な意見が行き交い、協同的でゆとりのある教育現場でしか育たないと私は思っております。
それから、公立学校の通学区の撤廃については、反対であります。学校選択の自由に沿うものではありますけれども、学校間格差が拡大し、地域に住みながらその地域の学校に学べないというふうな現象も起きると思います。
私は、通学区をそのままにしておきながら選択肢の多い学校というものは可能だと信じています。それは、地域総合制中等学校の創設であろうかと思います。
時間が来ましたのでこの辺でやめますけれども、一言。
今回の法案につきましては、要するに全体的に学校現場の秩序維持、そのための排除、あるいは競争強化というものが前面に出ています。一方、自律、連帯、共生といった学校づくりの姿が見えてきません。そういう面で、非常に不満を持っているわけであります。
以上をもって、終わります。(拍手)
○高市委員長 池本参考人、ありがとうございました。
次に、杉原参考人にお願いいたします。
○杉原参考人 杉原でございます。
今の池本参考人の活発な意見にかなり共鳴するところがございます。教育問題が日に日に深刻化している今日、この教育改革三法案に対して努力されている方々のその努力に対しては、非常に多とするというか、評価はいたします。しかしながら、今回の改正で改革が本当に十分に進むのかという観点から見たときに、やはり不十分な観点というふうな見方もできるのではないかと思います。
時間がありませんので、論点を絞って述べたいと思います。
日本の、特に戦後の教育体制というのは、文部省が、確かに力がすぐれていたという意味はあるのですが、法律を極めて細かく体系化し、整備して、それによって表向きは非常に整備しているのですけれども、そのことが実は逆に地方教育行政の活性化を奪うというか、創意工夫する余地がないというか、そして、そのために、今度は中央政府に寄りかかって、創意工夫しようという意欲すら持たない、そういう状況が生まれておる。実際の教育行政は文部省よりも地方の方が現場に近いわけですから、結局、その結果として教育行政全体が沈滞化しているという結果になっているというふうに思っております。
そういう観点から見たときには、やはり教育改革というものを考えるのであれば、広い視野と大きな構造をきちんと把握した上で一つ一つの改革を位置づけていかなければ、その努力が、努力には違いないのですけれども、余り効果のない努力に終わってしまうということになるように思います。
実は私は、一昨年の参議院では、国旗・国歌法案のところで公明党さんの推薦でお話しいたしましたけれども、このときに、そういう法規がないことがどれだけ現場を混乱させるかということにおいて、あれは必要だったんですね。そして、事実、つくることによって、随分現場は鎮静化しました。もちろん、国旗・国歌法案に対して反対の考え方をされた議員も、党もあるわけですから、全員の賛成を得られるわけはないですけれども、しかしながら、全体の流れから見ると、あれは必要な措置であったというふうに思われます。
私の観点は、自民党の勉強会でも述べたことがありますし、それから民主党は、将来は政権交代の中心になる党ですから、やはり物の考え方をダイナミックに持っていって、大きな中から物事を位置づけてやっていただきたいと思うのです。
今、構造改革ということが小泉内閣のキャッチフレーズですけれども、この教育行政制度こそ、まさに構造改革の対象であるというふうに思っております。
それで、三点ほど私の考えを申します。三つの法にはいろいろな要素があるのですけれども、それを全部解説しますと時間がありませんので、そういう形でやっていきたいと思っております。
まず一番目は、社会教育法改正に見る社会教育主事資格の要件の弾力化についてということについて述べたいと思います。
これは、平成十二年十一月二十八日の生涯学習審議会社会教育分科会の報告で、「家庭の教育力の充実等のための社会教育行政の体制整備について」という報告の中における社会教育主事の弾力化をしようという提案に対して答えたものです。
この法案を詳しく見てみますと、事実上、九条の四の一のハのところに「文部科学大臣が指定するものに従事した期間」、そうした者に社会教育主事の資格を与える、それで弾力化したというふうに法律ができているわけですね。
しかしながら、これは、全国の社会教育の実情は多様であって、各地域では各多様な課題を背負っているわけですね。そういうところで、文部科学省が一つの基準をつくって、そしてそれに合った者だけを社会教育主事にする、そういうことは率直に言って無謀である。現実の地域の多様性を全く把握できないにもかかわらず、そういう制度をつくるということに対して、非常にナンセンスなという感想を持ちます。
もし必要であれば、ここのところは、「その他教育委員会で定める事業に従事した期間」というふうに、教育委員会が定めるようにしておけばいいのです。教育委員会に任せると安心できないというふうな考え方は、もう既に今、地方の時代において認められる考え方ではないと思うのです。そして、そこにおいて初めて、地方教育委員会が自分たちの創意工夫に基づいて賢明に資格を与えるのであろうと思います。これを事情のわからないところで、中央政府で基準をつくっても、ほとんど意味をなさないというふうに私は思います。
次に、学校教育法に見る性行不良による出席停止についてというところを述べさせていただきます。
性行不良の児童生徒に対する出席停止は、従来も法的には、戦後、学校教育法ができたときから原理的には可能なんです。にもかかわらず、それが実質的には適用できなかったというところに、先ほど言ったような、文部省で原理的には整備して、そして文部省が強いために地方教育委員会が全部文部省にべったりになるというために、そういうところを活性化して適用するということを教育委員会の判断でできなかったのですね。そういうところに、結局、学校教育法二十六条にありながらほとんど適用できないという現実があったわけです。
しかしながら、教育の荒廃が進み、出席停止を認めざるを得ない状況がふんだんに現場に出てくるに及んで、昭和五十八年十二月五日の初中局長通知ですか、「公立の小学校及び中学校における出席停止等の措置について」というものが出ました。今回の改正は、事実上これを法律化したものであります。
しかしながら、法律化するわけですから、確かに、国民の審議を経たことになって確認をとったことにはなるかもしれませんけれども、それによって本当に、出席停止の必要性のある子供を出席停止にできるようなことで活性化するのかどうか。法律を整備したけれども、現実は以前と同じ。事実、この通知を出したとき以降においても、出席停止が急激にたくさんふえたわけではありません。実際の現場の荒廃はどんどん進んでおりながら、数字の上ではそんなに出ておりません。こういうところにやはり、法律は整備したけれども実態は動いていないという現実があるように思います。
むしろ、この停止に関係しては、文部科学省は、停止した子供たちの措置をどうするのかというところに予算をつけるとか、ほかの機関に対して関係をつけるとか、そして、そのほかの実際のことは、市町村の教育委員会の判断にすべてゆだねる。ですから、ある地域においては、本当にたくさん出席停止をする地域が出てくるかもしれない。しかし、それでもいいではないですか。その子供たちを別にどこかで収容して、きちんと対応するのであれば、何も全国同じ率の数字が出てくる必要は毛頭ないはずです。地方自治というものでは、地域差、地域の文化に応じて教育が変わらなければならないと思うのです。
三番目は、地教行法に見る、指導が不適切な教員の転職についてです。
これも実は、地方公務員法二十八条一項三号によって原理的にはずっと以前から、地方公務員法ができたときから可能なんです、制度自体としては。にもかかわらず、実際はそれが必要であるにもかかわらず、何らそれを適用することができなかった。その前提に立って、また今回こういう法律をつくったわけですけれども、その法律をつくって、またそれが実際には、解釈の問題だとかいろいろなことで実際に運用できるのかどうか、実際に効果を持つのかどうか、そこのところに対して全く考えが及んでいないように私は思います。
多少乱暴な意味が入っておりますけれども、一つの案では、直接の対象は県費負担教職員ですから、県費負担教職員で一つの学校に何年間か勤めたら、転勤しなければ、よその学校に移らなければいけませんけれども、そういう人たちのリストを都道府県が公表して、市町村の教育委員会がその中から新しい人を採用するということです。そして、結果として新しく採用されなかった人たちを、そこでやめさせるのではなくて、都道府県教育委員会が責任を持って転職の措置をとる。そのためにはかなり大幅に転職の場所を探さなければいけないと思いますけれども、その苦労をすることこそが教育行政であって、美的な法律をつくることが教育行政ではありません。
そういうことを申し上げて私の結論としたいのですけれども、最近、審議会も含めて議論が活発化していないというふうに、さっきの人も言われました。私も、その意見には非常に同意です。審議会自身も非常に力量が不足しております。そういう意味では、もっと教育のリアルな姿をとらえるべきであろうと思います。
以上で終わります。(拍手)
○高市委員長 杉原参考人、ありがとうございました。
次に、松村参考人にお願いいたします。
○松村参考人 全教の松村と申します。
私は、子供と教育にかかわる教職員団体の役員の一人として、本委員会で審議中の教育関連三法案に反対の立場から、この法案が、子供と教育の危機打開など教育改革になり得ないこと、また逆に、さらに危機と困難を深めるものであることを述べてみたいと思います。
第一は、社会奉仕体験活動の義務化の問題です。
本来、奉仕活動は、その基本において、強制されるべきものではありません。とりわけ、人格形成を進める教育の場における奉仕活動は、子供たちの自主性の尊重とその活動を通して新たな発見や社会事象への知的な理解と結びついたときに初めて教育的な意義を持つものだというふうに考えます。
国会論議の中で、遠山文部科学大臣は、ボランティア活動と奉仕活動は違うとして、義務化ではないと答弁されています。義務化でないとするなら、なぜあえて法改正まで行うのか。しかも、法案の中身は、「教育指導を行うに当たり、」「充実に努めるものとする。」と記されていることからも、この「ものとする」という用語が、学習指導要領でも、法令によるいわゆる訓示規定として日の丸・君が代問題が問答無用に学校現場に強制されている事実を私たちは見逃すわけにはまいりません。
とりわけ、これが評価の対象になることは、事実上の義務化であり、強制につながるものです。かつて、茨城県を典型例として、高校入試の内申書で特別活動や社会奉仕活動を点数化したことが、点数を上げるために生徒会長に立候補する生徒がふえ、老人ホームを慰問したという記述が内申点を上げ、合否の明暗を分けるものとなったという例は、教育現場では余りにも有名な話になっています。つまり、人や社会のために力になりたいという極めて人間らしい思いと行為も、激しい受験競争の教育のもとで選別のための評価につながるとき、それはその思いや行為をもゆがめ、人間形成の力とはなり得ないということです。
現行法のもとでも、さまざまな社会・自然体験、奉仕活動を教育活動の中に位置づけ、それを進めることは可能であり、法制化によって奉仕や献身が強要される危険性は絶対に私は避けるべきだと考えます。これは、私たち教職員にとどまらず、教育改革国民会議の最終報告に関連をして、日本青年団協議会も含めた各界の談話や、少なくないマスコミの論調からも、社会奉仕体験の義務化に批判、疑問、反対の意思が表明されていることにもはっきりと示されているように思います。
第二は、高校の通学区の撤廃と大学への飛び入学が、競争の教育のシステムをさらに強めて、現下の子供と教育をさらにゆがめるという問題です。
御承知のように九〇年代に進められた現行学習指導要領と高校教育の差別的な多様化、知識、理解、技能と関心、意欲、態度を切り離して対立させる文部省の新学力観政策は、幼稚園から大学に至るまでの受験競争を一層激しくし、競争の質までも変化させ、今日の、未曾有と言っても過言ではない子供と教育をめぐる困難をもたらす大きな要因の一つになっていると考えられます。
九二年の学習指導要領の本格実施、九三年の文部省の入試制度の多元化、多様化を基本にした「高等学校の入学者選抜について」が実施に移される中で、愛知県東部中学校のいじめを苦にした自殺事件や、他者への刃物を使った暴力事件の続発、九五、六年から、ムカつき、キレる子供たちの新しい荒れ、学級崩壊などが問題になり、神戸事件、黒磯北中事件、「十七歳の衝撃」と言われた少年犯罪の多発、さらには、一昨年来、学力の危機と言われる新たな問題にまで発展をしています。
ちなみに、登校拒否、不登校は、現行学習指導要領が告示されたときと比較するならば、文部省調査でも三万八千人であったものが、今日十三万人を超える事態に至っています。
この根底には、大量の学習についていけない子供をつくり出し、子供同士の共同の人間関係を敵対的なものに変え、学習が喜びではなく苦役にしか映らない状況を生み出し、そこから子供たちのいらいらやムカつきなどストレスが広がり、不安と困難に子供たちを追い込んでいる競争の教育があることは、子供とかかわる私たち教職員にとっては痛いほどよくわかる話です。
私たちは、教育的観点に基づく一定のルールのもとでの切磋琢磨や競い合いとしての競争と、システムとしての競争の教育は、はっきりと性格を異にするものであると考えます。もはや、激しい競争の教育は、子供たちの学習の動機づけとはならないばかりか、学力と人間形成という二つの点からも大きな障害になっているのが現実ではないかというふうに私は思います。私自身も審査にNGOの一員としてかかわりました一九九八年の国連子どもの権利委員会の勧告は、そのことを指摘し、その抜本的な改善を求めているのです。その内容から見ても、今回の法改正は明確に背くものだというふうに考えます。
三番目は、指導力不足教員の問題です。
こうした子供と教育の危機と教職員の教育活動上の困難は、深く結びついています。私たちも、その基本においては、教職員の教育力量を高めることは極めて重要な課題だというふうに考えています。しかし、それは、文部科学省が発表した二十一世紀教育新生プランが言う、不適格教員、指導力不足教員を分けて、それを摘発し、他方で特別に優秀な教員をつくり出すということではないと思います。
今日、子供と教育の危機に伴い、教職員のストレスなどによる精神疾患の急増など深刻な事態が広がっていることは、文部科学省の調査においても明らかです。私どもが昨年実施した調査においても、非常に健康だと回答した人はわずか二%で、疲労を翌日に残し、ストレスを持つ人は八〇%にも及んでいます。その内容は、忙し過ぎるが五一%、子供との関係がうまく築きにくいが三六%、さらに、過労死も他人事ではないと五六%もの教職員が答えています。本日お配りした資料の中にも、茨城大学教育学部の小島研究室で独自の調査をされて、私たちとほぼ同じ調査結果が出ているように私たちは考えます。
私たちは、だから仕事ができなくともよいというふうな立場に立っているのではありません。既に、文部科学省の委託を受け、先行的に検討、具体化が進められている新しい人事管理制度を進める地域では、こうした実態から生まれる精神疾患の問題や、新たな子供と教育の困難を克服するための教職員の教育力量の向上の課題や、反社会的な行為や、それらをすべて同一のレベルで議論し、指導力不足教員のだれもが納得し得る教育的基準も示さず、一方で優秀な教員と指導力不足教員をつくり出す全体としての人事管理政策に、私たちは反対をしているのです。
昨年から人事考課制度が導入された東京では、校長、教頭の評価は絶対評価です。しかし、学校や子供の実態、教職員の取り組みも違うその評価を、都教委がその絶対評価を五段階の相対評価にし、ある都立の教育困難校では、退学者を出さないために教職員集団が一丸となって努力している姿は評価せず、都教委に報告される生徒の問題行動の数の多さによって校長自身が最低のEランクにされる、そういう実態があります。私学ではまた、生徒の遅刻や欠席者の数まで考課査定の基準にされ、給与の差別支給や退職にまで及んでいるケースもあります。
これは果たして学校の教職員の教育活動に役に立つものでしょうか。私は、教育にとって一番大切な、子供と教職員の深い人間的な関係とそれを軸にした教職員同士の協力、協同の関係、父母との信頼関係をつくり出す上で、この人事考課は極めて有害な役割を果たしているというふうに考えます。
教職員の指導力の向上は、子供の成長を基本にした教育活動全体としてどうつくり出すのか。父母や地域住民の願いや批判に率直に耳を傾け、それを受けとめ、教職員の協力体制をつくること、自覚的な研修の場を大いに保障し、それをつくること、そのための条件の整備などにあります。
教育基本法第六条が、教員が全体の奉仕者として自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めること、そのため、身分の安定と待遇の適正をうたっているのは明らかです。今、教育行政にとって、この精神を踏まえた施策を充実させることこそ、教育困難に悩む教職員に対する大きな励ましであり、課題であると私は考えます。
最後に、既に広がり深まる深刻な子供と教育の危機、教職員の実態、父母、国民の願いこそが、私は二十一世紀の教育改革のあるべき課題と方向を示していると考えます。拙速な論議でこの国の将来に大きな禍根を残すようなことがあってはなりません。憲法、教育基本法を初め、子どもの権利条約、国際人権規約などの国際合意事項に立って、教育三法案の慎重にも慎重な審議を重ねて求めて、私の意見陳述とさせていただきます。
御清聴ありがとうございました。(拍手)
○高市委員長 松村参考人、ありがとうございました。
次に、森田参考人にお願いいたします。
○森田参考人 東洋大学社会福祉学科の森田と申します。
私は、今回の改正論議は、政府とか学校運営あるいは学校管理に当たる方々といった大人の側からの議論が中心になっておりますが、本来この議論の中の中心となるべき子供たちですとか、あるいはこの問題をある意味では正面に受けとめなければならない親たちにとって、果たしてどういう問題を抱えているのかといったこと、あるいは今のこの法案が通ることによって一体どのような問題を今後抱えることになるのかといったことについて、お話をさせていただきたいと思っております。
私がかかわっておりますのは児童福祉という分野でございます。教育現場でさまざまな形で抱えることになった問題を、ある意味では、地域に帰り、家庭に帰り、正面から受けとめることが必要とされているのがこの児童福祉の分野と言ってもいいかと思います。
その中で考えてみますと、私は、四つの点で今回の法案について皆様への私の意見を言わせていただこうと思います。
まず第一に、教師も子供もある意味ではだめなものは切るという、分離政策と言ったらいいでしょうか、切るという発想について、これが私は非常に強く今回の法案の中から感じることでございます。
私は親や子供たちの調査、エンゼルプランといいますが、これをこの関東近辺の自治体の中で多様な形で行ってまいりました。その中で、もちろん、暴力を子供たちに振るう教師ですとか、あるいは子供たちの意見をまともに聞こうとしない教師たち、そういった教師がいないわけではないということは十分に存じ上げております。また、子供たちの抱える問題の中で、学校に登校しないということを選択する子供たちがいることも、一方では当然の権利というふうに思っております。
けれども、こうした中で、関係を絶つとかあるいは分離をするということからは、子供の育つ環境を整えていくという大人社会の役割は決して果たせないということを考えております。
それは、具体的に言えば例えば、昨今この国会の中で定められました、虐待防止に関する法律についても、虐待する親たちを子供たちから引き離すということはいたしました。あるいは少年法改正の中で、事件を起こした子供たちを早い年齢から罰するということをいたしました。けれども、私は、非常に重要な視点というのは、回復していくための支援、具体的に言えば、関係の改善をしながら子供たちや親たちが回復していくための支援ということ、この視点を今までの政策の中でどれほど取り入れてくださったかということでございます。
例えば、幾つかの新聞等でも報道がありますので皆さんも御存じかと思いますが、川西市という小さな町がございます。そこで取り組まれておりますオンブズパーソン、子供たちのさまざまな問題を正面で受けとめるという試みをしておりますが、こうした取り組みをし始めている自治体というのが幾つか今の日本の中には出てきております。
けれども、この取り組みというのは、ある意味では大変手間暇のかかる、志を持った大人たちがお金もかけていかなければいけない取り組みです。しかも、大変時間のかかる取り組みであるというふうに思います。でも、こうしたことを私たちが続けていくということは、憲法二十六条に保障された「ひとしく教育を受ける権利」ということの侵害状況を克服していくためには重要な方策だと感じております。
私は、今の子供たちや大人たちに大切なことというのは、新しい価値の中で自分たちの育ちや子育てをしていこうとしている視点を、行政やあるいは学校現場や、あるいはもちろんこうした国会の中でもこの視点を理解していただいて、共感的に見守るという視点を持っていただけないかということでございます。初めに分離ありきという考え方で臨んだときには、その場で、子供と教師というもの、あるいは親と教師の関係、こういったものは決してよくなってまいりません。
幾つかの例がございますけれども、具体的には、例えばこれは、私の非常に親しい友人が出会ったケースでございます。東京のある町で教師をしておりました、私たちの友人ですから四十代ですが、この四十代の非常にベテランの教師が、ある別の町に教職として移りました。それで、非常に困難なクラスに配属をさせられたのですね。でも、その困難な状況というのを聞かされないで教職に、クラスに入っていった。その中で、親たちとの信頼関係が築けず、私から見ても本当にすばらしい実践をしてきた、三十年もやってきた教師であるにもかかわらず、その中でできたことというのは、徐々に徐々にクラスの中で発言もできなくなっていく、時にはクラス通信の一字すらもう書けなくなってしまったというようなことを、私は間近に見てまいりました。
そうした意味で、いい教育実践をしていただくためには、本当に子供や親との信頼関係というものが大切だということです。親たちの側からすればあえて、やめてほしい、もちろんそういった教師の人たちもいるわけですけれども、初めから切るということを前提にしますと、本当に一番困るのは子供たちであり、親たちである。そのあたりをどういうふうに、誠実に議論をしたり、あるいは調査をしたりしながら子供たちの毎日の生活を守れるかということ、こういったことを私はぜひお考えいただきたいというふうに思っております。
第二に、私がこの議論の中で大変重要だと思っておりますのは、子供が主体になっていないということです。今回の改正の中で、この社会奉仕は、子供の自発的、主体的な選択を保障するという、ある意味ではボランティア活動という形に置きかえるべきではないかというふうに私は考えております。
お手元に資料を配らせていただきました。私はこの五年間ほど、幼稚園や保育所を使って小中高校生たちがボランティア活動をする、それもあくまでも自発的な選択によって行うという活動をずっと追いかけてまいりました。
ある意味では、日本の社会では、これまで子供たちを市民として社会の中に余り受け入れてきませんでした。教育の対象となっている、あるいは保護の対象となっている子供たちというのは、市民としてのいろいろな権利を与えられてこなかったわけです。そういう意味での子供たちが、小さな乳幼児の子供たちの中に入ったときに、大変すばらしい、生き生きとした活動をしてくれました。
後でぜひこのデータをごらんいただきたいというふうに思っておりますが、具体的にはいろいろなイメージを子供たちは描いておりましたが、皆さんにお配りしてあるもので、この近郊の土浦というところで行った調査の中では、例えば生意気というふうに、これは決して悪い表現ではないと思いますけれども、そういった感情を持っていた子供たちなんかも、やった後ではぐっとイメージが変化していく。あるいは、子供って怖い存在だと思っていた小中高校生たちが、その行ったことによって怖いというイメージを払拭していく、こうした多様な関係性がこの中から生まれてきます。
私は社会福祉を専門としておりますので、とりわけ皆様に申し上げたいことは、社会福祉の世界では、既に十九世紀のヨーロッパの中で慈善事業という発想がございました。その中では、力のある者がない者を助けるという考え方、あるいは二十世紀には、これが社会福祉の領域では権利としての社会福祉として語られるようになってまいりました。あくまでも援助される側の立場というもの、具体的にはその権利擁護のために必要な援助をしていく、こういった発想で、社会福祉の領域ではボランティアという概念を使いながら多様な実践を展開してきているわけでございます。
そういった意味で、二十一世紀の子供たちがボランティア活動をしていく、そういったときに、社会奉仕活動という概念で、ある意味でいえば強制や、あるいは上から下へというような概念を持ち込む形で子供たちに表現することが適切であろうかということを、ぜひ私は御検討いただきたいというふうに思っています。
私が自治体の中で小中高校生と幼稚園や保育所の子供たちとの活動を展開していく中では、多様なイメージが出てまいりました。時間がございませんので一つだけ御紹介しておきますと、子供たちは、例えば楽しいとか、素直という項目ですとか、あるいはかわいいというようなイメージを非常に持っています。むしろ、苦しいというような活動とか、あるいは助けてあげるとかというイメージは余り持っておりません。
私は、保育所に小中高校生が行くときに、きっと小さい、低年齢の子供たちを選ぶかというふうに思っていました。子供たちは、あに図らんや、四、五歳の一緒に遊べる相手を求めました。これは私には大変驚きでした。つまり、何かしてあげる、おむつをかえてあげる、ミルクを飲ませてあげる、何か作業ができるから非常にいいかと私たちは思うわけですが、決してそうではない。小中高校生なんかでも、小さな子供たちと遊べるということを、大変その中の価値として見出していくわけです。
それから、中学校三年生と五歳の子供が出会った幼稚園の実践の中では、その十五歳、十四歳の子供たちと五歳の子供たちがカップルをいろいろ形成していくわけですけれども、その中で、本当に一日じゅう一緒に話し込んでいるという姿も見ました。私は、このボランティア活動というのは、一方通行では決してない、双方の関係性の中でできていくのだというふうに思っております。
それから第三に、社会奉仕活動の相手先となる社会福祉施設あるいは利用者の問題をぜひお考えいただきたいというふうに思っております。
時間が限られておりますので余り丁寧にお話しすることができませんが、皆様御存じのように、一九九九年度からは既に六万人の、教員になるための人たちが社会福祉施設に実習に出ております。六万人です。皆さんは御存じでしょうか。例えば、社会福祉施設の中でいいますと、高齢者の施設やあるいは障害者の施設といいますが、箇所数でも約二万カ所しかございません。しかも、そこの中に利用していらっしゃる人たちの数、全員を集めても四十三万人ぐらいしかいらっしゃいません。その方たちの中に今既に六万人。
そして、もちろん、私が所属しております社会福祉学科のようなところでは、社会福祉のこれからの従事者をつくるための実習に出ております。それ以外にも、ホームヘルパーや、あるいはいろいろな、医者だとか、もちろん公務員の方たちも今社会福祉現場にたくさん実習に出ておられます。私がいろいろな施設の中で出会った限りにおいては、一つの高齢者の施設に年間三百人のボランティアあるいは実習の方たちがいらっしゃる。そして、毎日数十人の人たちが出入りしている。この状況を、例えば生活をしている人たちの側からお考えになったことがございますでしょうか。これ以上に子供たちが入り込む、これは大変なことになります。
とりわけ、障害のある子供たちにとってみれば、小学校や中学校の中で、学校の中で一緒に生活をする、そのことをしていれば、何も施設に出る必要なんかないわけです。ある意味でいうと、私は、インクルージョン、このことを学校教育の中でやってこなかったツケを社会福祉施設の中に転嫁しているような気がしてならないわけです。
子どもの権利条約を採択をした後、子どもの権利委員会の方からの勧告の中でも、こうしたことに対する、日本の措置に対する告発、勧告というものが出ております。こういったことも含めて、ともに生きる、とりわけ学校の中ではそうした発想を持って、学校から外に出ていく、こういったことを価値の中に入れないで、ぜひ学校教育の現場の中で、インクルーシブな教育、あるいは多様な人たちとの交流を通して行っていただきたいというふうに思います。
大変雑駁な意見になってしまいました。最後に私は、家庭教育への支援ということについて申し上げたいというふうに思っておりました。申し上げたかったことの柱だけ言わせていただきます。
第一点の問題ですが、これはどなたもお触れになっていらっしゃいませんが、かつて家庭教育手帳というものを文部省は出されました。こういった、子育ての教科書というようなものをお出しになったわけですが、今回、法改正によってさらにこういった方法を補強されようとなさっていますが、私は、こういった方法にはいろいろな問題点があるというふうに考えております。
それから第二の点ですが、家庭教育への支援の中核となるべき児童館ですとかあるいは幼稚園、こういったところが今再編統合の非常に大きなうねりの中にあるということです。果たして、家庭教育をこれから進めるというときに、地域にそれだけのものを受けとめるだけの土台があるのかどうか、そうしたことを自治体が受けとめるだけの力があるかどうか、こういったことをぜひ御検討いただきたいというふうに思っております。
以上、私の意見とさせていただきます。どうもありがとうございました。
○高市委員長 森田参考人、ありがとうございました。
以上で参考人の方々からの意見の開陳は終わりました。
―――――――――――――
○高市委員長 児玉健次君。
○児玉委員 日本共産党の児玉健次です。
参考人の方々に心からお礼を申し上げます。先ほどいただきました、それぞれ貴重な御意見を、この後の私たちの委員会審議の中で十分生かしていきたい、そのために同僚の議員と私も全力を尽くしたい、こう考えております。
さて、まず松村参考人にお伺いをいたします。
地教行法の一部改正とも関連して、高校学区制の廃止、私は、これは高校を全県的な規模で序列化しないかと思いますし、そして、生徒の集まりにくい高校がどうなっていくだろうか。北海道出身ですが、北海道では、ある地域の高校の統廃合は、その地域の困難性を一挙に増幅させます。そういう観点が一つ必要だと考えているわけです。
そして、そのことともかかわって、先ほど参考人は、国連子どもの権利委員会、一九九八年六月に日本に対して懸念と勧告を表示しましたが、NGOのお一人として審査に参加なさった。そうもお聞きしましたので、あの子どもの権利委員会が日本に対して、極度に競争的な教育制度によるストレスのため、子供が発達のゆがみにさらされている、そう言って、過度なストレス及び不登校を防止し、かつそれと闘うための適切な措置をとる、こういう勧告をしました。主要国政府の中で、教育の根幹に触れてこれほど厳しい指摘がされたのは日本だけだったと思うのですが、地教行法の一部の今度の改定、そして教育三法案全体も含めながら、今の子どもの権利委員会の懸念、勧告について、今の段階でどうお考えか、それをまずお伺いしたい。
二つ目は、同じく松村参考人にお伺いしたいのですが、先ほども御意見の中で、教師の力量を全体的に前進させることが今求められている、こういうふうに発言なさったと私は聞きました。今、教師の力量を発揮させる、文字どおり包み込みながら大きく発揮させていく。そのとき、子供を中心にして、教師が職場で大いに同僚性を発揮しながら、父母の参加も得て、教師の力量を生き生きと前進させる、こういう努力をなさっていると思うんです。その幾つかの具体的な姿をお示しいただければ。
そして、松村参考人に対する三つ目、最後の御質問は、指導が不適切であるということ、随分委員会で審議しました。何をもって不適切かというのはいまだに明らかになっていません。そういう中で、まず排除ありきという態度が、熱意に燃える教師を萎縮させはしないか、生き生きとした教育力の発揮を阻害させはしないか、こういう危惧を持つ国民が広がっています。この点についてお考えを聞きたいと思います。
以上です。
○松村参考人 お答えをいたします。
最初に、児玉議員の方から質問のありました地教行法の高校通学区の撤廃の問題についてお答えをしたいというふうに思います。
御承知のように、今回の文部科学委員会の議論の中でもそういう議論がありましたように、もともと通学区は、過度な競争を規制する、それをそれ以上拡大させないで、やはり教育の条理に基づいてこの通学区制というのは実施をされたというふうに思うわけですが、これが撤廃をされると一体どんな事態になるのか。
今、御承知のように、小中学校では、東京の品川など、通学区域の撤廃がなされて、特定の学校に、校区を越えてどんどんたくさん子供が集まっていく学校と、そうでない学校が歴然として出てきているわけです。私は、これが高校に実施されるならば、まさに小学校も中学校も高校も、学区なしのノールールで、一方で、たくさん、いわゆる評価の基準は、恐らく安定していて、上の学校へ進学するために有利であるとか、さまざまな基準が働くんだとは思いますが、もう歴然として、現実に今の教育の中に、いわゆる、よく言われますように、学力の階層化という問題が、一九七〇年代の後半から八〇年代にかけて大きな問題になったことがあります。
要するに、一定の学力を身につける者は、家庭の経済状況がかなり裕福で、家庭が安定している。そういう子供たちは、学力が身について、また学力のみではなくて、いろいろなおけいこごとにも行けるし、いろいろな能力も身につけることができる。ところが、大変経済的に貧しかったり、困難な状況にある家庭の子供は、やはりそういう意味では大きなおくれをとって、学力が結局階層によって偏在をしていく、そういう状況があらわれたわけですが、私は、恐らく、通学区の弾力化は学校の階層化に道を開くことにはなりはしませんでしょうか。
規制緩和路線を日本よりも早く実施したニュージーランドに私たちの教職員団体が調査に行ったところ、学校は、校長が自主的な権限を非常に持っていて、自主的な運営をされるらしいですが、教員評価も行われているわけですが、学校間格差が非常に進んで、一方では、受験に有利だ、あるいは上の学校に行くのに有利だ、そういう非常に多くの子供が来る学校と、そうでない、先住民やあるいは生活困難な人々の学校、そういうふうに分かれてしまって、結局は、このニュージーランドの規制緩和路線も重大なやはり見直しを迫られるという事態になっていると思います。
それから、韓国の例を見ましても、韓国も同じようにダブルスクール現象がこの何カ年かの教育改革によって、今、日本の教育困難校と言われる、同じような状況が、授業が私語で成り立たない、そういったことがやはり広がっているということから見ても、私は、改めてこの規制緩和という考え方に基づく、もっと言えば、経済の市場原理を学校教育に導入することは教育の場にはなじまない。
教育はサービスでも商品でもなくて、文字どおり憲法が保障している権利であり、教育基本法が言うところの人格の形成の場である、そして平和で民主的な主権者を育てるところである、そういう観点で学校教育をとらえ直し、立て直していかないと、結局は、市場原理の導入が、御承知のように、ルールなき資本主義というふうな言葉が横行したように、学校の中にも、競争についてルールのないような、そういった事態が一層進行するのではないかということを本当に憂慮しています。
そうでなくても、御承知のように、一九九八年に、国連の子どもの権利委員会が、諸外国の政府報告書に基づいて、それぞれの政府に対して、今、子供を権利行使の主体者としてどのような施策を実施すべきかということが審査をされたわけですが、私は率直に申しまして、あれだけ国際化を主張される日本の政府の代表が、国際的な会議の中ではまことに恥ずかしい限りだなというふうに、率直に個人的な感想を持ったところです。
私が申しましたように、今日、九〇年代の教育改革は、八〇年代には見られなかった新しい子供と教育の危機的な状況をつくり出した。それはやはり国連でも、競争の教育に原因があるしそれを見直すべきだ、とりわけ登校拒否、不登校については、これは抜本的に見直さなくてはならない。私が申しましたように、何と三倍から四倍近くなったわけですから、この原因をしっかりと見定めることが大事だし、国連子どもの権利委員会のあの勧告の基本に立って、今もう一度日本の教育改革の具体的な課題と内容がどういう方向をとるべきなのか深めてみなくてはならないというふうに思っているところです。
私は、市民・NGOの教職員団体としての報告書づくりにも参加をしましたし、また、当日行って審査の傍聴もさせていただきましたし、また、権利条約の委員をしておられるカープ女史が日本に来られたときも、超党派で、議員会館で懇談をした場にも参加をさせていただきました。まさに子供をどう見るのかということが今問われているように思いますし、私は、日本政府は、勧告ですから法的な制約はないとおっしゃいますが、ぜひこの精神を具体的に実行する責務を持っているというふうに考えているところです。
それから、教師の力量を発展させる具体的な努力の問題ですが、私たちは教職員団体ですから、現場の教職員の皆さんがよい教育をしたい、そして子供の成長や発達の中にこそ喜びを感じたいという願いがあるわけですから、そういうものを積極的にくみ上げて、年に一回教育研究集会というのをやっているわけです。この教育研究集会には、延べで一万人近くの教職員の皆さんがそれぞれ参加をされます。年に一度です。北海道から沖縄まで、全国から参加されます。今の子供と教育をめぐるリアルな実態が、光も影も両面から描き出されます。それは、残念ながら、官製研修とは違った面を持っています。
なぜかといえば、私たちは、自由に、自主的に、自費で、教育力量を高めたいという願いからその集会に参加するわけですから、その自由で自主的な論議の中で出てくるのは、やはり今子供が何を考えているのか、その子供のさまざまな問題行動や発達上のつまずきを教育の課題として教職員がしっかりと受けとめる。そして、教育活動上の実践や悩みが率直に、学年会議や職員会議や、あるいはまた自主的にやる研修会や学校でやる研修会で語れるような、そういう場の中で、私は教職員の力量が向上していくことを基本に置くべきではないかなというふうに思っています。
幾つかの教研集会での実践の中でも、例えば今学校評議員制が出されていますが、それ以前から、生徒と父母、地域住民の代表と教職員の代表が協議をして、三者協議会だとかあるいは評議会で、大変困難な学校、それこそ地域に根差した、地域に開かれた学校づくりを地域住民の皆さんと一緒に進めてきて、少しずつではあるけれども、学校が地域の中で一層見えてきて、積極的な面が出たことが、また学校、地域住民の学校教育参加を発展させていくような、そういうものもあります。
それから、先ほど教員評価というのがありましたが、子供に一人一人の授業の感想や評価をさせて、そして問題点や課題を教職員がどう改善していくのかということを、学校の教職員集団の議論の中でやって、見事に、低学力と、自治の力を学校の中でつくりだして、学校をつくりかえていったというような実践例もたくさん出されているところです。
最後に、指導力不足教員の問題です。
実は、きょうの最初の参考人意見表明のときに言えなかったのですけれども、私どもの違った調査の中で、実は昨年も同じ項目で教職員を対象に質問をしたわけですが、あなたは自分の仕事について雇用不安がありますかという設問に対して、何と四七%の教職員が雇用不安を抱いているという実態が明らかになっています。昨年よりも六ポイントから七ポイント近くふえています。
それは、指導力不足教員問題やあるいはまた人事考課の導入などで、教師の場合は、ひょっとして自分は指導力がないのではないか、きのうもああいう実践をしたけれども、やはり悔いが残るという思いを、絶えずストレスの中にため込んでいっているというのが私たち教師の仕事だというふうに思うのですね。だから、私は指導力がありますとか、私は適格教師一〇〇%というふうな教師は、かえって私はまゆにつばをつけないといけないというふうに思っているわけです。
そう思うと、やはり自分の実践を振り返り、絶えず子供のためや、本当に成長のために何が課題なのかということを考えることが大事ですし、そういう不安を持っているところに、指導力不足として転免職を考えますと言えば、必ず不安は多くの教職員の中に広がっていくと私は思います。教員は自分のやる仕事が、きちっと身分が安定して、心配なく子供とゆとりを持って接することができる、要するに、掛け値なしの人間性や人格を通して子供の人間関係をつくるというのは、身分の安定なしにはあり得ません。
私たちは特権的な身分を主張しているのではありません。本当に仕事に専念のできる、深い教育という営みにふさわしい、精神的、文化的な営みにふさわしい身分の安定と待遇の適正化を図ってください。そのことが、指導力不足教員の今回の問題ははっきりと矛盾をするし、むしろそのことによって、教職員が不安感や仕事に手心を加えたり、むしろ言いたいことや疑問に思うことやしてはならないことまで、それを気にしてやるような学校になれば、私は学校が死んでしまう危険性や可能性だってあるように考えていますので、この点はぜひ、深い教育の条理に立って検討いただきたいと思っています。
以上です。
○児玉委員 参考人の諸先生に、時間が来て質問できない失礼をおわびして、これで終わります。


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